日々更新? ~ at the1969 ~
ここはホーム名の示します内容どおりのページではありません。まあ、当ページを著述している者のやっすいプロフィール項とでもご理解いただき、暇つぶしと、各記事に対する信憑性とかの一助にでもしていただければな、と。
いま現在はブログのように、気の向いたとき時間のあるときにだらだら書いてだらだら更新するページとしています。アメブロばかりにかまけて、最近はなかなか進んでいませんが……。
感性歴ってのかしら?
まあ、祖父を戦争でもっていかれた世代なので生まれは断然よろしくない。それでいうなら、下の、そのまた下のもう半分ぐらい下あたりだろう。朝に夕にと毎日つづく茶色い献立に戦々恐々とした陰のただよう夕食の光景。食後、TVのチャンネル権なども子供にはない時代で、酒グセの悪い親父の晩酌がてらに見ているチャンネルを家族みんなで、酔いどれた機嫌爆弾を踏まないよう内心おびえながら、ブラウン管にうつるそれをただただチラ見している程度。なにしろ、部屋がお寝間とそこしかないのだからどうにもそこにしか、身の置き場がない。しかしそれでも、父親の帰宅していない時間帯ならば見せてはもらえていたので、これもまた、親の帰宅やそれを知らせる姉からの声におびえながら盗み見るていで、なるべく気配をけどられないように小さい身体を体育座りに小さくたたみ、息をも殺して画面のまえに座っていたことを覚えている。母親、姉、もしくは、自分。だれかが父親の機嫌爆弾を踏むと熱々の味噌汁がいきなりアタマから降ってきたり、固いグーや生活備品なんかが、とき場所かまわずそこいらじゅうを舞っていた。
ものごころとやらが芽生えるまえから毎日がこの調子であったため、そんな自分ちの環境が異常なのではという疑問も自覚も記憶もなく、母親も、なぜかそんな父親にのめり込むようについていく生き方を当時すでに選んでいた人間だったから、まだ幼稚園にさえ通っていない自分など、爆弾の直撃をくらっても逃げ場などなく、それどころか、姉や母親から「怒らせたおまえがわるい」と追撃され、ただただ泣くしかないからメソメソと泣いていると「うっとうしいっ!」と張り飛ばされたり突き飛ばされたり。家、というやたらリアルでいてどこかゆがんでみえていた現実のなかで、自分が自分らしくあることの許される唯一の場所といえるものといえば、夜、布団のなかでようやく手に入れることのできる「空想」という、実にあやふやな、それでも、確実にひとりだけでいられる空間。そこだけが、自分の自由を手にすることのできる、ただひとつの世界だった。
テーマ
想像力の源泉といえば、当時の子供たちにとって、夕方や学校の夏休み、冬休み期などの長期休暇期間の朝によく放送されていた、数々のアニメーションが重要なファクターとなるだろう。もちろん現代にくらべ制作本数などはしれたものだったが、なにしろ何回でも再放送してくれていたうえに、それぞれが飽きのこない、いわゆる秀作ぞろいといった時代。なかでも「無敵超人ザンボット3」は当時としてもすさまじい衝撃作で、自分でお金をかせぐようになってからLD(レーザーディスクと読みますな)デッキを買ったとき、セットものでイの一番に入手したのがこの「無敵超人ザンボット3」。いわゆるロボットによる戦闘ありきの戦争ものなのだが、なにしろ時代劇のごとく勧善懲悪でパターン化されたそれまでのロボットものとは、制作意図がちがう。「ばかじゃねえの? 戦争してんのに敵だけ皆殺しで味方は無害で済むわけがないだろう。殺し合いに情緒もくそもあるか、んな子供だましの番組を作るつもりではじめたわけじゃねーんだよ」と、当時のヒーローもののお約束だった風潮に製作者側として真っ向から切り込んだ、ショッキングすぎる展開のあまりロボットアニメのなかでもなかなか語られることのない、名作中の名作。それも当然、監督も制作陣も「機動戦士ガンダム」のファーストシリーズへと引き継がれていく、いわば世相に名高い「機動戦士ガンダム」を生み出すにいたる、その原点ともいうべき作品。全編とおして重視されていくストーリーは重厚で容赦なく、「へたなオトナ」のドラマ番組など、鼻先ではじき飛ばされてしまうであろうほど。アニメーションだからこそ描けるリアルな主眼、かつまた、このチームのリアルさは戦争をして「正も邪も、双方に内在しているもの」として、その賛否も、また同志同族間での争いも、戦争自体をも、支持も不支持も言明はしていない点。いやあ、思えば、「海のトリトン」や「妖怪人間ベム」など、確たるテーマ性をもったアニメーションが、昔は実に多かった。そう、絵画も漫画もアニメも音楽でも、現代文化圏は先人にないものをとの視点ばかりに捉われすぎて、描き手がテーマを細分化しすぎるあまり、もう、テーマ性が作品ごとの支柱たりえないていたらくなのだろう。いわく、「対価も時間もかけて鑑賞はしたが、けっきょく何が言いたかったんだ?」ってな風潮となり、客離れを引き起こす一因となる。なに、ことはない。カルチャー産業界は、いまや自分たちで自分たちの首を絞めているにすぎないわけだ。創作意図なんざ、単純な方がいいに決まっている。また自分の場合、アニメや映画などのストーリーものを視聴した夜の空想として、「あの後主人公はどうなるのだろう」「続きはどうなるのだろう」といったその先々を夢に見るたぐいのものではなく、「あのとき主人公がこうしていたら、どうなっていただろう」「あのときこうしていれば、こういう続きになったはずだ」などと、かってに脚色し、脳裏で違うストーリーとして再生させて楽しんでいたように思う。そして日が昇り、また沈みはじめて家族全員が室内へとそろってしまい普段のアレが普段どおり、ふつうに再開されると、いつのころからか、決まってこう思うようになった。
「ジブンハ、ナンデウマレテキタンダロウ・・・・・・?」
重い気落ちからでも暗い発想とかからでもなく、ただただ純粋に、それが不思議に思えるという感覚だった。以降それは、まさしく影のように自分について回るようになり、その後歳を重ねたからといっても特別離れるようなことなく、いまだ背後の襟もとあたりから、薄く微笑んでいるような、どこか実態をさえ感じさせるほどクリアで、それでいてリアルな存在として、生涯かけて解かなければならないような、自分の最大のテーマとなっている。
……そういえば、「マジンガーZ」や「グレートマジンガー」、「デビルマン」などのなかでも、回によっては人種差別や争いの無常さや悲惨さ、宗教問題なんかを堂々とテーマとして取り上げているの、ご存知ですか? まあ、原作・永井豪のクレジットからしてアレな作品群ではあるのですが、ひょっとすると、そこいらあたりも、アニメーション文化草創期の名作たちが地上波では決して再放送されなくなってしまったゆえんなのではなかろうか。もちろん、言葉狩りなどの影響もあるにはあるのだろうが、作り手の魂を平気で踏みにじっていることに、気づいているのだろうか……?
音楽ってか、楽器?
はじめてのサウンド体験となると、やはり年代的に、こそこそ見ていた当時のテレビ番組。なかでも「快傑ズバット」の主人公や「ムーミン」の友人の彼、それに、「人造人間キカイダー」とかのあの連中。みなさんなぜか皮手袋をはめたまま器用にギターを弾かれる旅人たちだったが、それぞれいちように、影がある、というか、当時から、影のあるキャラ付け用として、みなさんわざわざギターを持たされていたのであろう。もっとも、ズバットさんはあのなかにご自身の変身グッズなどを仕込んでおられたわけだが、そういえばズバットさん、番組が終わると仮面ライダーV3に改造されたりアオレンジャーになったりで、あのころ大忙しでしたねえ。考えてみると、現代にまでつづく影のあるキャラの線は「機動戦士ガンダム」のシャアにまで引き継がれた時点でいよいよ完成となったように思われますが、彼は士官学校出の少佐どのという立場のためか、若いころからお酒と武器や機器操作などはたしなめど、これといって楽器類の演奏はしておりませんでしたね。ウッドベースとかピアノとか、なんか大型の楽器が似合いそうな雰囲気ですが、高官出世しながらも前線好みの転戦派ですから、やっぱり持ち運びに便のいいハーモニカあたりがマストでしょうか……?
そしてもうひとつの刷り込みは、ミュージックコメディの名作映画「ブルースブラザース」。当時としては数少ないコメディものの内容でもあったため土曜の夜とかにわりとよく放送されており、子供にも理解できうるストーリーでもありほかの映画はともかく、この「ブルースブラザース」だけは折あるごとになん回も、ほんと、なん回も見た記憶が。途中、声優さんがバブルガムブラザーズのトムコンコンビのご両名に変更となりはしたが、見やすさでいえば前任者方々のほうが耳なじみよく、他方、作品への熱量としては、バブルガムのおふたりの方が上だったような気がする。お気に入りは、アレサフランクリンのキッチンゴスペル「シンク」。歳くってLDでオリジナル版をはじめて視聴し、ジョンリーフッカーがどこぞの通りでストリートミュージシャンに扮してプレイしているシーンのあることを知って「テレビマンってのは音楽オンチか……!」と憤ったり。まあ、テレビ制作者に音楽オンチが多いのはおおむね間違ってはないとは思うが、同作品、全編を通してみると、意外と下ネタが多いしさすがオーバードーズで他界したベルーシィの作というべきか、ほうぼうに見られる造りの粗さが、見事にジャンキーのそれ。まあ、そういったあたりをカットかけていくとあのTV版の流れとならざるを得なかったのかもしれないが、それにしても、ほんとにジョンリーはギター一本であのジョンリーサウンドが出せるんだと思い知るとともに、アルバム同様、やはりゾワッとさせる雰囲気がある。なんかジョンリーの音って、蒼光りする冷たい刃物の独特な「におい」のような、ズルリとしたおっかないものを感じさせ、それでいて、あのスウィングでハネまくって聴き手を躍らせるわけだから、いつ聞いても目にしても、あのジジイ、やっぱすげえジジイだなと思わざるをえない。
しかしやはり、楽器類、とりわけギターなどともなると、片田舎のへんぴな家程度にははるかに縁遠いものと感じてはいたので、マット「ギター」マーフィもクロッパーさんもこの当時は、とくに印象には残っていない。監獄ロックあたりで顔半面にたくわえたむっさいヒゲと長めのブロンドヘアーをこれみよがしに振り散らかしながらの顔面アップからソロを決めるクロッパーさんの姿を、逆に「アメリカ人っつっても、コキタナイひとはいるんだなあ」と、なんか見下げてみていた覚えさえある。いやあ、かのお方こそがのちに知るスタックスサウンドのカナメ中のカナメ、スティーブ「大佐」クロッパーと同一人物であろうとは、「グリーンオニオン」や「ソウルマン」にやられてなにかと洋楽をあさり、ライナーなんかを調べてはどうにか音源入手して聴いたりしはじめる10代そこそこの歳となるまで、まったく気がつかなかった。ひとの印象、というか、まさしく刷り込みとは、こわいものだ。
誰かいる?
まさかウチってテレビドラマによく出てくる嘘くさいほど絵にかいたようなビンボー家族レベルなの? と自分ちの家庭の事情ってものに気づかされたのは、小学校のある市街地からかなりはずれた田園方に位置している当時の自宅であったちいさい市営住宅まで、いつものように虫取りカメとりザリガニとりなどの道草を存分に楽しみながら帰宅したある日のこと。玄関先にたむろしている何人かの背広服姿のおじさん集団とはちあわせ、帰宅した自分に「やあやあ、はじめましてだね、こんにちは。うち、誰かいる? お父さんかお母さんいないかな?」と、そのなかの誰かが当時の大人たちのかもし出していた雰囲気からは感じたこともないぐらい機嫌のいいニコニコした笑顔でそうたずねてきたので、こちらも愛想よく「見てくる!」と上機嫌で返事をして家に入って確かめたところ意外や誰もいなかったので「どこかに出かけてるみたい」とありのままに伝えてこれまた機嫌よく帰ってもらい、ならばきょうは教育テレビが見られるぞと居間にもどりカバンを降ろそうとしたところ、ややもせず、横手の押し入れがガタガタと音を立てて開き、なかから「よいしょ、よいしょ。ああ、きょうは暑いなあ」と、なに食わぬすずしい顔をして、腰を曲げながら、さもそれが当然ででもあるかのよういなかったはずの母親が、暗いそのなかから這い出てきたとき。押し入れというものは入ってみると、内側からふすまを開閉すること自体、意外な困難を要するもの。なぜわざわざそのようなところから母親が這い出てくるのだろうか。一瞬、間を必要とはしたが、それはすぐに鉛のように重く、また、じわりじわりと全身にひろがるようなすこぶる鈍い衝撃のようなものをともないながらも、幼い日の自分にさえ、それらの持つ意味や一連のつながりなど、すぐに理解できることだった。小学校もまだ低学年、しばしば半ドンで帰ってくるとよく母親がテレビで流しっ放しにしている、子供ながらにも視聴にたえない、ありえないような設定の、数さえ多いビンボードラマの主人公たち。どう見ても嘘くさいこんなたわけ話をわざわざ時間かけて流し見するぐらいなら教育テレビにかえてほしい、なんて常々思っていたのだが、まさか自分ちがまともにその端くれだったとは。嘘くさい、ニセモノ、まやかし、時間の毒とさえ感じていた、借金に追われ、殴る蹴るする酒くさい父親とそれでもなおそれにすがりつく母親に、そこに飼われるしかすべのない子供たち。よもや、昼メロのなかのみすぼらしい、ビンボー三点セットさえ呼べるようなありえないほどの家庭像が、自分ちそのものだったとは。しかも、この母親のまえにいる自分というやつは長男という身分らしいから、ゆくゆく、そのすべてをひっかぶるのはこの、自分というやつなのだと思い知る。
子の屈折とは、意外と単純なところからはじまるものなのであろう。
偶然、もしくは必然か
「おまえはあそこのドブ川の橋の下でひろわれてきた子じゃ!」
姉からはよくそう罵られ、それを契機に泣きだす自分をみて、両親は鼻で吹くように笑っていた。
姉は生まれつき心臓病を有しており、それこそ、生まれ落ちたその日から、いつ終わるともしれない命であるとの宣告を医者から受けながらの誕生だったらしい。まあ、いくらか話に尾ひれはついているであろうが、生まれながらの心臓病持ちであることはほんとうの話。さらには長女でもあり、家庭内外でのその待遇たるや自分みたいな泣きべしょこきの鼻垂れ者などとは雲泥の差で。親のそばにいる権利、お菓子やおもちゃ、文具や家具や衣服にいたるまで、自分は姉のおさがりを拝領して過ごしていた。さすがに学校にいくようにもなると、男子はみなパンツにリボンやフリルなどの装飾品のないものをはくものなのだと知り、母親に、これはちょっと学校でカッコ悪いので男ものを買ってくれと直訴した記憶がある。たしか、学校に行くようになってはじめて受けた、身体測定のときだった。べつだん誰に訊かれているわけでもないのに、姉のものを間違えてはいてきてしまったのだと、広くて冷たい大きな部屋のなかで、半泣きでひとりむなしく声をあららげて、違うんだ違うんだとあたりに聞こえるよう言いまわっていたと思う。しかもあとから聞いた話、姉はこの当時から小遣いをもらい、ひとり近所の駄菓子屋でふぃーばーしていたそうだ。
自分が駄菓子屋なるものの存在を知ったのはずいぶんあとだから手クセの悪さはそのころからのものではなかったように思うが、覚えているかぎりでは、いわゆる親の引き起こす諸般の事情とやらでなん度目かの引っ越しを経験したあたり。きょうびスリルが欲しいのYouTubeにあげたいのと妙な理屈で他人様のものを盗んだり商品に手をつけたり危害を加えたりと様々にはしゃぎまわるウスラ馬鹿が多いようだが、子供心は純粋であるぶん、動機も切実だ。駄菓子とはいえ、成長期のはじまりつつある身体にとってそれは、糖分の補給欲求である。これが次第、盗みグセにつながって犯罪となるのだが、誤解をおそれず区分けするなら、幼稚な遊びの部類ではなく、おそらく病的な精神疾患の部類に入ってくるものだろう。
歳をくわえるにしたがって、おもちゃ、自転車、ラジカセ、ステレオへと、いよいよ姉からのおさがりもレベルを増していく。もちろん、その都度姉はさらなるレベルの高い品々にかこまれていくわけだが、ないないづくしの子供にとっては自分専用として、モノが自由に使えるだけでもうれしいもの。もっとも、なかには拝領した時点ですでに役に立たないものなんかも多かったが、それらも自分の一存により、台所の引き出しに常備されていたペンチやドライバーなどをつかって分解され、また組みつけられては分解されをあきるぐらいにまでつづけられたあと、ようやく引導をわたされることとなっていた。つまり、小学生も高学年となれば無駄に知恵などついてきてしまい、いい加減野良遊びにもあきがきて、ドライバーとペンチと廃品の類なんかがビンボー家庭のいち男子にとって、かっこうの暇つぶし用具となっていたのである。なにしろもとから壊れているのだから、引っぱろうが引きちぎろうが、もとに戻ろうがカタチが変わろうが、べつだん誰にはばかる必要もない。思えば自分の妙な機械好きは、このころの心象風景などからきているのだろう、か?
病に負けることなく無事年頃をむかえた姉がこの当時、赤いラジカセでよく流していた曲。もちろん、すでに見かけだけはごつい灰色のステレオプレイヤーなんぞをわがものとしていたころだったから、エアチェックして手に入れたり、レコード盤を友人と貸し借りしたりしてみるみるその数を増やしていたカセット群のいち部として録音保存していた楽曲、そのひとつだったのだろうが、どうしても気になる、というか、胸に引っかかってしかたのない曲がいくつかあった。
そのうち、借り物や値の張るレコード盤にいたずらされてはたまらないといったところだったのだろう、姉から「ラジカセなら勝手につかってもいい」との許可が出た。実際、姉の目を盗んでわからないなりに操作して曲をかけてみようと適当にセットしたカセットテープの録音を何本か上書きして消してしまったり、レコードならばと挑戦して針をバカにしてしまったりしていたのだが、それも昔の話。それに、なん度リクエストしても曲をかけてくれなかったのは姉なのだ。そこいらあたりはさすがに姉も理解してくれていたのか、単にラジカセが不要となっていたのか、もしくは、当時あたらしく発売されはじめていたミニコンポ的な、小型でかわいいステレオに、野望をうつしていたのかはわからない。もちろん、自分への譲渡条件として出されていたものはあくまで「ラジカセ」のみの話ではあったが、もらった方としては、本体だけ手に入れて楽曲のないまま、気の済むはずがない。それに、あくまで「これをやるから下手にさわるな」という条件である。ここで深追いして譲渡相手とモメる必要はないわけで、カセット自体は両親のもとからカラオケかなにかのものを手に入れて、素知らぬ顔で上書きしながら使っていた。
ラジオによるエアチェックはわりと楽しかったが、当時もてはやされていた楽曲といえばアイドルに演歌、それに一部ポップスとフォーク系かその延長といったいわゆる「流行歌」の全盛期で、一応ロックとカテゴライズされて世に出ていた連中でも横浜銀蝿などのチンピラ専売ばかりで、とてもそそるものではない。やはりここは姉と一戦まじえることになろうとも、耳にも胸にもグンッときてたまらずひきつけられてしまうあの曲たちの正体をつきとめ、できうるならば入手して、はれて自分のものとなったラジカセからとっぷりと、心ゆくまで鳴らしつづけてみなければ。
ここで、なんの因果だったのだろう、自分にとってはのちの人生に大きくかかわる重大な転機が、たかだか赤いラジカセからながれてきたカセットテープからの楽曲によって、不意におとずれることになる。しかもそれは、楽曲の誤認という、いまとなっては信じられないような細い糸だったのにもかかわらず、しかも何故にかたぐりよせたかよせられたのかといった「縁」としかいいようのない、不思議なかたちで。
リメンバー クローバー
ああ、この歌は違う……一番最初にその「感覚」に気づいたのは小学校のとき習った名曲「グリーングリーン」。この「感覚」はあれだ、海のトリトンとかガンバのエンディングに近い。なんだろう、ひとの体温みたいなものが歌のなかにある気がする……。この「感覚」が生涯、あらゆる楽曲と向き合うときの自分の核たる判断基準となっていくのだが、大きく分けて世の中には、この「感覚」を洪水のごとくうなるほどもたらす楽曲と、まったく感じさせない楽曲との2種類がある。この2種類は非常に「いい」のだが、問題は、作り手側にその程度の認識力もない、非常に中途半端なレベルの楽曲が掃いて捨てるほど日々量産され、経済界の力学によってメディアコントロールされて「流行歌」として押し付けられ、すべての楽曲が余人のもとに届くチャンスをことごとく盗み取り、しんに世に出るべき「2種類」の楽曲ほど、ほとんど埋没の憂き目にあう。それがこの国の音楽産業の仕組みであり、それを壊されると困るオオカネモチどもがたくさんいるため、そんな産業システムの破壊者たりえる有害分子は作者はもちろん、たとえ楽曲であっても封殺されてしまう。それらがすべからく、この国のメインシステムそのものであるという悲しさ。それらをくつがえして、この耳に届いた曲。
楽曲自体はシンプルな作りでいて、その当時はなかった男性による高音主線で歌われ、指先、足先、腰に首と、気づくとこちらの身体を揺らさせてひとりでにリズムなんか刻ませているそれ。しかもこの、圧倒的な声の力はなんだ? 高い音程だから余計こちらの身体に入るのだろうか? そしてこの、魔法のようにとどいてくる言葉はなんなんだ……?
姉の居ぬまにカセットライブラリーをあさる。なん度か置き場所をかえられたが、負けずにこりずにしつこくあさる。なにしろせまい空間であり、だれがどこになにを隠そうと、家のなかなら発見は容易だ。ただ、あの時代の小学生のこと、音楽ユニットに関する知識などまったくないし、カセット自体がわりとめずらしかった当時、その収録限度時間も数十分から数時間までと種類により幅広く、都合、テープのどの部分にだれのどの曲が録音されているのかもわからない。仕方がないので放課後の姉のいない時間帯をつかって数日、片っぱしからラジカセでテープを掛けまくり、子供ながらにも地道に探していく。姉の目を盗みながらの作業でもあり、なかなか見つからない。見つからないが、あの「感覚」の正体が知りたいし、できれば我が手中にとどめてしまいたい。
あった! これだ! こいつらだ!
どれぐらいほど聞き探しを繰り返したことだろう。なかには思いっきり家族会話入りテレビ番組収録音源なんてのもいくつか出てきたが、目的はひとつ。数日かけてようやく見つけだした一本のカセットテープはよほど姉もお気に入りの楽曲だったのか、この当時若者向けに新発売されはじめていたカラフルクリアカラーの外装でいかにもオトメ受けのしそうな、おしゃれっぽい造りのそれに収められていた。そのケースの背表紙には、これまた姉のイキのいいオトメっぽさ全開の丸文字でバランスよく、「EPLP RCサクセション」と書かれていた。
AM? FM?
このころ、なん度目かの引っ越しを経験してついに姉の中学進学とともにいよいよこんどは結構な距離を越すこととなり、むずかしい年ごろをむかえているというのに姉弟ふたりしていきなり一切の友達をなくすという日常環境を強いられるに至ったのだが、弟の目には、底意地の悪いオンナ悪鬼か外道修羅の化身のごとく見えていた姉であったがどうやら世間的には見た目けっこうかわいい方らしく、酒乱と妄信狂のいりまじった両親という、子供にとって暮らしにくい住環境が育てたのであろう持ちまえの要領のよさとあいまって、存外はやい段階で、姉は新天地になじむことができていた。それにくらべて、初心者用チュートリアル程度の人づき合いの方法論さえまだまともに身についてさえいない年齢であった自分などは、さんざんであった。よかれと思って言うことやること成すこと丸ごと、すべての言動という言動がきれいに全部裏目に出る。だからといって折れたり妥協したりなどといった処世術も持ち合わせていないうえに転校生だから馬鹿にされているのだという思いから、反目してぶつかったり、ぶつけられたりもしばしばだった。なにしろチンピラ文化の全盛期である。折れるは逃げると同義であり、逃げたものはそれ以上の軋轢から解放はされるものの、いま以上の「自分」を見出す権利を、自分から放棄し、手放す行為に等しかった。泣きべしょ君は泣きべしょ君なりに、泣きながら「違う」と思うことには全力で抗い、「納得できない」ことには頑として歯向かって部屋に帰るとひとり、泣きながら暮らしていた。赤いラジカセとRC、このコンビとの出会いは小学生も高学年ぐらいのころだっただろう、リバプールやベイエリアなどの場所も言葉も知らないのに「トランジスタラジオ」の詩にだけつられて習い、わけもわからず洋モノ専門のFMラジオなんぞ聞き出して「どうやらヘビメタってのはうるさいだけの音楽らしいが、こりゃあ趣味にあわんな」などと、だれにともなくわかったようなことをひとりで言ったり感じたりしていた。AMとFMの違いなんかも使われているのが日本語か英語か程度のもので、本来どういった区分けなのかもまったくわからない。また当時、音楽業界全体の認識として真の音楽ファンは洋楽しか聞かない伝説のような風潮が支配的であり、より音質のいいFM局では曲からDJからCMにいたるまで、全部が全部、徹底したかのように横文字偏重の様相だった。しかし、AMだと歌詞はもちろんDJの言葉もわかるし聞きやすいのだが、あの「感覚」をもたらしてくれる楽曲はなぜか異様に少なく、言葉のわからないFM楽曲のほうによりそれを感じる場合が多かった。もちろん、歌詞もわからなければグループなのかソロなのか、そもそも、それが本当に英語なのかどうなのかさえも、わかってなんぞいなかった。それに、いくら聞いていてもAMではほとんどRCの曲も情報も流してくれず、そのうちエアチェックなんかよりも録音した楽曲そのものを幾度となく聞き込むほうが、より楽しくより充実した時間の過ごし方となっていくのだが、……なんか、こうして文字にしてみると、泣きびしょたれの分際でえらく生意気なガキだったんだなあと少し思う。いや、ほんと。
RC succession
ほんとうの音楽のチカラって、ほんとうはもっとすごいもんなんだぜ? ……それはあの幼いころから「ブルースブラザーズ」によって目にも耳にも、ココロにもふんだんにすりこまれている。それを「日本語」によってさらにわかりやすく具体化してくれたアルバムが、このRCの名盤「EPLP」であると、ある意味いえるのかもしれない。それぞれ楽曲の発売当時に事務所判断により演奏そのものをトラバン(スタジオミュージシャン)さん方々にとってかわられてしまったといういわくつきのシングル集であり、あれほど素晴らしい楽曲を断りもなく台なしにてリリースしやがったと、いまだにメンバー一同ご立腹の仕上がりなのだそうだが、あのアルバムの良さのひとつには、メンバーのけなすその「音のツブの軽さ」も起因していると思う。楽曲も、いわゆるお菓子ダネやパン生地なんかとおなじで、作り手側が必死になって練りに練って仕上げていくとやはり、こねればこねるにつれて、手アカにもまみれしまう。なおのこと、あの深くて鋭利な初期当時のキヨシローの調べをバンドアンサンブルによって表現しようとすれば、さらに重く色合いさえもみえないほど、真っ暗なものにしか聞こえない仕上がりにもなりかねなかっただろう。さらにいうなら、バンドと事務所の威信をかけてばんばんシングル出しする内容としてならば、耳ざわりの良さは、なおさら重要なファクターだ。あれほど深くてもろくて切なくするどい歌詞を腕達者たちが微塵のこだわりもなくちゃっちゃとやっつけで録った軽いサウンドに載せているからこそ、あの重金属の放つ鈍光のようにさえ感じる意味深い詩が、くっきりと、輪郭をともなって生きてくる。そしてまた、キヨシローさんの弾いているギターがまさしくボーカリストにしか出せないあのリズム感と間と上手、ヘタですらない「聴かせるチカラ」まる出しで、しかもそれがいたるところにちりばめられており、「うしろの軽い演奏と一緒にするな。これはオレの作ったこういう楽曲なんだ。わかるやつにだけ届けば、それでいい」と訴えかけてくる。余談になるが、キヨシローさんのここいらヘンの楽曲アレンジへのバランス能力はファーストアルバム当時からすでに発揮されてもいるわけなのだが、もはや、世に無二のものとさえ言っていい。RC解散の最終要因となってしまったアルバム「I LIKE YOU」でのコーちゃんのドラムでは重すぎるからとハチ春日に叩かせた件、ファンとしてはコーちゃんなみにショッキングな編曲判断のように思えたものだが、あらためてアルバムを聞きなおしたりしてみると、これが、初期のハードフォークグループを気取っていたころのアレンジに限りなく近いサウンドであることに気づく。たぶん、キヨシローさん(とリンコさん)の狙いは、日本ではじめてバンドサウンドなるものを構築し、またバンドサウンドたらしめていたRCの楽曲アレンジの重要な骨格であったG2、その加入以前への、RCとしての姿勢のリセットにあったのだろうと解釈できる。まあ、それを言うなら、何故G2を切ってしまったんだとなるのだが……。
アレとも出会う
この時期はほぼ、姉のカセットライブラリーとラジオからの楽曲、そしてその情報とに首ったけになっていた。比喩でもホラでもなく本当に、ラジカセひとつでひとり、せまくて薄暗い、小汚くはがれ落ちかけてる土壁造りの畳部屋でしゃかりきに踊っていたのである。もちろん、ディスコなんたらとかステップがどうのとかいう類のものではなく、ただひたすらお気に入りの曲をかけてただひたすら妙な足踏みをしながらただひたすら手足をぶらつかせて、ただひたすら、腰を左右に振りくり返すだけ。うさばらし、なんてものでもないが、ノレる曲とノレるリズムでノルだけという空間が、当時の自分にとってはたまらなく居心地のいい場所だった。
そしてこのころ、引っ越し後にようやくできたはじめての親友とともに、もうひとつ、たまらなく居心地のいい空間に出会う。その親友つながりで自分同様あまり生まれのよろしくない連中とも顔なじみとなり友人となっていくのだが、ショーケンやキョウヘイ、ユウサクあたりにあこがれて親のタバコなんか盗むようになり、廃車置き場をうろついてサビだらけのクルマで遊んだり捨ててある原付をニコイチに組み合わせて動かないか試したり、基地みたいなものを作ってめいめいが入手してくるエッチな本を回し読みしたりと、いわゆる「タムロ」しながらサロン活動よろしく箸の持ち方から人生哲学や生命学まで、それぞれがそれぞれに自然といろんな情報をもちよって交換するようになり、中学生になるころには、自分たち以外の、ほかの同級生たちのやっていることや考え方なんかが、ひどく子供じみて見えるようになっていた。もちろん、そのころのアシといえば自転車だったが、ちょうど原付界の、いわゆるリターンシフトミッション付きバイクである「カブ」タイプバイクの牙城を崩す大事件、「スクーター」が発売されて一大ムーヴメントとなっており、みな親の購入した自分ちのスクーターを持ち寄って夜中に回し乗りしたりしていたのだが、まあ、自分も手クセのよくない方ではあったが、
「町にこんだけあるんやもの、1台や2台なくなったってわからへんのちゃう?」
などという不届きな業腹ものもなかにはいて、「あいつのバイク、親にバレんやつらしいぞ」となると、みな不届きバイクの持ち主宅のほうに、足が向かいがちとなる。ここで妙なのが、それをみんなからの賞賛や人気ととらえて同じマネをするやつらが、ちょろちょろあたりから湧いて出てきてしまう。時代も時代、校内暴力の吹き荒れはじめているころであり、また田舎ながらに、当地はその一番手を切って自分も通うことになる町内唯一にして県下屈指のマンモス中学校で警察出動、中学生の大量捕縛となる大事件を引き起こし、全国ニュースでばんばん流されてしまったといういわくつきの町。そのため、警察も学校もまだヤンチャ坊あたりの対応に二の足をふんでいるころでもあり、いわば学校でも市街地でも、自分たちは、少々度のすぎる行為程度ならば、なかば黙認されて済んでいた。かてて加えて、その校内暴力の主犯はわが姉とイトコたちの集う学年一派主導によるものであり、その弟世代でもある自分たち血族一党は、学校でも街中でも、わりと危険因子視されてさえいた。しかしそれでも、あいだにいる先輩世代にはもっとひどい悪業タレがたくさんいたのだが、まあ、教師も警察も手を出しづらい連中って時点でならば、タバコ吸って夜遊びしながらガソリン盗んで誰のものとも知れないバイクを何台か確保してめいめいで好き勝手乗り回していたとあれば、充分っちゃ充分か。
ただ自分の場合、いわゆるヤンチャ組、ヤンキー一派とはすこし、趣を異にしていた。バイクにしても、たしかに乗りはじめは「自転車よりラク」だったからであるし、原付ではない数百㏄クラスのバイクへのあこがれも、当時親友から「かっこいいもの」としてその手の専門雑誌やバイク漫画などの確たる情報とともにもたらされたりもしてはいたのだが、原付スクーターとはいえ、いざ実物にまたがりアクセルを開けてみると、なんだろう、「違う自分」のような存在が「速さ」のその先にいるような気がして、どんな場所でも時間でも、遮二無二アクセルだけは開け、ひたすら「速さ」を求めていたのである。もちろん基本的に、いまでもそれは変わらない。ただ、バイクによるそれはスピードメーターの示す数字と針とのせめぎ合いとかいう単純な種類のものではなく、たとえば、いかにすればあの峠道をいまより速く走り抜けられることができるか、いかに速く市街地を抜けられるか、となりの町までいかに速く駆け抜けることができるか、などなど、あえて言葉にするとすれば「内面速度」とでもいえるような感覚のもの。もっと速くバイクを駆れるようになれば、その先に、まるで気配みたいな存在で見え隠れしているあの「違う自分」の世界に行けるかもしれない。自分にとってのそれはバイクに乗る理由のすべてであり、またそちらも、いまとほとんど変わらない。なるほどいわゆる「地元のチンピラグループ」のひとりであったかもしれないが、手クセが悪くて金もないのに粋がってタバコなんぞを吸っている以外は、音楽とバイクにしか興味のない、ひとり部屋で踊るだけの、相変わらずの泣きびしょくんという姿が、当時のほんとうの自分だった。ただ、心のなかでも外であっても、泣きわめきながらでも、嫌なものには面と向かって「嫌だ」と言っていた。それだけのことだった。
うぶ
当時のことである。ファッションに関しては短ラン長ラン、ドカンにボンタン外行きならばニッカポッカやスウェット上下に特攻ズボンといったところだったが、自分の好きな連中は、そんなものなんかだれも身につけていない。スリムなスーツにブラックジーンズ、それにやはり、モッズな細いネクタイに吊りバンドである。あの当時、ろくな情報なんかほとんどなかったのに一軒だけそういったヤンキー御用達の商品を取り入れている服屋さんが地元にもあり、ずらりと並ぶそれ系の衣服なかに1、2枚ほど、いわゆるモッズ系の商品が押され押されてなかば隠されているようにすみっこの方にはさまり込んでおり、日々の昼食(パン)代や親のサイフからちょろまかしたりカンパしてもらったりして貯めたお金でそれら衣服や新譜のレコードなんかを購入し、「なんでみんな同じようなかっこうで同じようなことして満足してんだ?」と、ヤンチャ連中のなかでもどこかはぐれている存在として、自他ともに認識されはじめていた。なにしろあのヤンキー文化一色だった当時に校内でただひとり、学生服でもわざわざぴっちりスリムを好んで愛用していたバカなど、自分ぐらいである。また、普段かぶらない制帽なんかも校章をひっぱがして市販のバッジにつけかえ、マリン帽風にしたりしたものをときおり学校までかぶっていったりもしていたし、普段着には数着の原色スーツにサテン地のピンフォールシャツなんかを着こんで、よくわかりもしていないのに、モッズやR&Bミュージシャンを気取って、いい気になっていた。そう、いい気になっていたのである。なにしろ無視してウルフカットにしたりしてすこしは伸ばしていたとはいえ、我が中学校は、男子はみな坊主アタマと決められていたのだから。だからこそ、ファッション系なんかにも、ことさら反発心を抱いていたのだと思う。……そういえば、校内の弁論大会で教師批判、学内体制批判、校則批判をぶちあげて堂々学年代表に選ばれ、数段高い壇上から、全校生徒と全教職員をまえにことさら厭味ったらしく吠えまくった記憶がある。おお、クラス中からのせられた事とはいえ、恥ずかしい。
そんな目立つ存在でもあったので、そこらでちょくちょく誰かれとなくぶつかりあったりもしていたが、いまにして思えば、あんな学生時代だったが、わりと人気者だったのかもなあと思ったりもする。先の改造マリン帽なんかも、ヤンキー組の女の子にせがまれてなかば強奪されたままかえってこなかったし、らぶれたー的なものも2月14日のちよこれいと的なものも、密やかにではあるものの、まったくもらわなかったわけでもない。男子からも、カツアゲの仕返し依頼とか借金の取り立てとか後輩が生意気だからしめてくれとか、こちらもこっそりとではあるが、わりと頼りにされていたのかもなあ、なんて、いま、あらためてうぬぼれてみたり。
ただそれも、あくまでいまにして思えばの話。当時の自分はどこか対外的なカベをバリアーみたいに張り巡らせてしまっており、親友やヤンキー一派のなかでもとりわけ親しい連中以外とはたいしてクチもきかず、わざわざ自分なんぞに興味をむけてくれるヤツは親友以外にはいないはず、こんな自分なんぞ、いっそどこかへ弾けとんでしまえば、よほどすっきりするだろうにと、毎日のように思っていた。ふと湧いてきてしまうそんな気持ちが抑えきれなくなると、わざわざ商店街の人ごみのなかを原付で猛スピードのまま何度も往復して走り回ったり、この田舎町の大動脈である国道の黄色い線のうえ、車道のど真ん中を「轢きさらせオラ」とばかりに、くわえタバコのまま直近すぐそばを行き交う車列のすき間を素知らぬ顔でのうのうと、家まで歩いて帰ったりしていた。う~ん、文字にしてみると、見事に迷惑きわまりない奇行児ですな。
ギターをはじめて手にしたりしたのは中学校入学当初ぐらいだった。叔父の家から出てきたという真っ白いヤマハのアコギを、ちょっとやってみたい気持ちもあるし捨てるぐらいならと軽い気持ちでゆずってもらい、音楽の担任に「弾き方」を聞きにいったところで、「弾けるようになるやり方」を教わったりした。つまりそのころ、まだチューニングや音階の概念がまったくなかったので、教師にしても、ドレミを覚えるころには嫌気がさしてこなくなるだろう、程度にしか考えていなかった節がある。しかしそれも道理な話で、ギターには、それぞれなん回かの挫折ポイントがあらかじめ用意されてもいたりする。あげてみるなら、①チューニングができずに断念。②ドレミが弾けずに断念。③コードが弾けずに断念。④「F」が弾けずに断念。⑤ソロが面倒くさくなって断念、といったところ。自分も、また自分につられていっしょになって放課後、音楽担当のもとに向かいはじめたなん人かの友人なども、案の定、音楽教師の想定どおり、それぞれ①~②あたりで「やめとくわ」となった。自分は①、②をクリアしたあと、もう、どうしても「曲」が弾きたくなってある日直訴したところ、「ドレミまで弾けたか? なら、あとは自分でやれ」と、たいして教えてもくれていないのに突然の免許皆伝(?)を申し付けられるにいたってしまった。しかし、これもまあ正論っちゃ正論で、基本さえものにできれば、あとは好きにプレイすればいいのが本来楽器でありギターなのである。この音楽教師は当時としてはかわったひとで、ほかのクラスでは社会や国語も担当していたと記憶しているが、現代でいうところのいわゆる絵にかいた暴力教師だったのだが、その不遜さゆえに同級の仲間内からもハブられどんどん孤立していくヤクザの息子や娘なんかを放課後、休日問わず、校舎裏に呼び出して親身になって話し込んだり海釣りなんかに誘ってうまいこと相談相手をつとめて見事に心をひらかせたり、問題校の教師としての役目を、ときに拳に包帯を巻きながらも、なみいる教職者の群れのなかでもいち番きっちり果たしていたように思う。卒業してふと学生時代を思い返したときなんかに、ひょっとするとあの先生は、荒れた当時の学校機関のひとつとして、そういう部門の専任担当官だったりしたのかもなあ、なんて考えてみたりもしていたのだが、このあいだ、息子の学芸発表会かなんかの折にひょっくり会って、まだ教師やってたのかという思いと歴代のヤンキー一派を震え上がらせていた当時の面影すらない好々爺然としたよろよろの足腰に見事に禿げ上がったまばらな白髪アタマと、常に笑みを絶やそうとしない様変わりしたかのようなその姿に、すくなからず度肝を抜かれた。ある意味、素敵な生き方だと思う。
ギターに関していえば、自分はたしか④でしばらくつまづいていた。後年になってそうと判明するのだが、自分はひどいオンナ爪で、ギター系のプレイヤーとしては不向きな指先を持っている。そのため、いまだに左指の爪だけは数日も置かずヤスリで削って少しでも短くなるよう努めているのだが、婦女子もうらやむほどの長い爪は、いまだまったく変化がない。ああ、毎日毎日弾きながら眠りにおちるほど練習していてもなかなか思うようにまで上達しない原因はこれだったのかと気づいてギタープレイヤーとしてプロの道はまず無理だと判断するに至るのだが、それもまた後日の話。なにしろ、スマホやタブレット端末でさえ指先を完全に寝かさないと爪があたってしまってまともに反応しないのだから、相当な美人さん向けの爪といえる。もっとも、いまでは少々のものなら省略コードと指を立てずに弾けるリックで代用してしまう方法で、個人のお楽しみ程度に多少出音がクリアでなくても、下手の横好きレベルとして平気な顔で弾いていられるほどには、ご近所への厚かましさも増している。
「F」を筆頭としたギターコードの習得を中断したり再開したりとつまづきつまづきしている間にも音楽熱自体は過熱の一途をたどっていて、英語教師に洋楽のスラングとかを「辞書にのってない」からと聞きに行ったりもするなど我ながら微笑ましい学生生活の一面もあったりもしたのだが、それも入学一年初頭まで。時代が時代で家庭環境が環境だっただけに「オトナの言い分はおかしい」といった方向に自然と傾倒してしまい、「あんたたちが将来かならず役に立つと証明してくれない限り、今後まともに授業を受ける気はない」と、学年主任にむけて堂々宣言したのが、中一のなかば過ぎ。全面実行に移行してすべて完了したのは、入学初年度を終える冬の終わりごろだったか。中二、中三ともなればもはや、自分は音楽とバイクと少々の読み物だけで充分やっていけるとタカをくくっていたほどだ。空想癖がつよかったためかちいさいころから読書はわりと好きなほうであったし、昼食代以外に小遣いらしきものを持ち合わせていない身としては、時間つぶしにしても知識欲からにしても、文章という文章は手にした本のあらすじや本文、解説はもちろん、巻末巻中の広告や発行日付、発行会社の住所にいたるまで、印刷されている文字と思えば、ひたすら目を通していた。いや、もう、単純に育ちが悪すぎたため、本というものは、手にしたからには読めば読むほどモトが取れるものであると考えていたのである。授業中なんかでも、算数の時間だろうと英語の時間だろうとより字数の多い国語の教科書をひろげ、走れメロスや中原中也、銀貨鉄道の夜なんかのお気に入りの章を、何度も何度も、授業科目そっちのけで、ひたすら読みふけったりしていた。おかげで小学生のころは成績なんか気にするほどのこともない程度には通信簿もテストの結果もよかったが、徹底して拒否すれば徹底して出来なくなるのもまた道理で、とりもなおさずそのころには「卒業したらバイクか自動車の整備士になろう」と思い、自分なりに整備士資格の本なんかを手に入れて、ぱらぱらと読んでみたりしていた。
もっとも、子供のころの夢はないものねだりの反動で、一番はやはり「おもちゃ屋さん」だった。もちろん、小さい田舎町なんかでそうそうおもちゃ屋さんの需要などあるはずもなく、また、バイクやクルマなどの機械類なんかも、当時の自分にとって、大きく見ればおもちゃの延長線上にあったものだったのだろうと言えるようにも思う。もちろん、高校進学などといった進路などはなから眼中になく、まずは自由になるためのカネがほしい。漠然とではあるが、近い将来への指針として、わりとはやくからそんなことを考えたりしていた。
暴走
夢がやぶられた、なんてほどの大きい衝撃でもなかったが、なにを思ってのことだったのだろうか、借金どころか融資なんてものに名を変えて父親が本格的に商売なんぞをはじめ、これまた、なにをどう思ってのことだったのか、おおむね、それまでの借金をまるめて一本化するためと起業融資とのからみだったのだろうとは察せられるが、商売開始と同時に、家なんか建てた。もちろん、融資融資といいように言ったところで所詮は借金の増額であり、吞ん兵衛で見栄坊のトラブルメーカーである父親がまともに計算立ててやりはじめた事業なわけがあるはずもなく、以降、日毎夜毎と減らない借金への愚痴を母親から聞かされ続け、当然それは、長男として生まれてしまった自分への、塗炭のごとく日毎夜毎とくりかえし塗り重ねられる「責任」という名の、鉛のオモリのような枷となって、母親の言葉数と同じだけ、わが身にまとわりつくこととなった。もちろん、父親が商売に色気を出し始めたころからそれとなく仕事を手伝わさせられはじめてはいたのだが、正式に屋号を持つようにもなれば、いよいよ逃げようのない2代目である。自然、稼業を手伝う時間は増えつづけ、休日や放課後なんかも次第に自分のものではなくなっていき、気づけば中学なかばで、仕入れから卸までやらされるはめとなっていた。もちろん家業である。ここにきてもギャラは一切、一円も発生していない。そして自分の就職先は進学しようがしまいが自動的に、というか、強制的に、「家」以外にはなくなってしまうこととなり、それまで、べつだん荒れていたような覚えはとくにはなかったが、やることなすこと自暴自棄となって母親の原付で夜道をかっとんだあげく、どこぞですっころんでくるほどバイクの運転が雑になったのは、このころである。
反発心は当然あったし、そろそろ世間一般というやつがわかってくるお年頃。「オトナ」ってやつはわりかし大した人間ばかりじゃないぞってのは存外はやい段階で知ってはいたが、「親」となると、反発はすれど、まだ自分にとっては絶対的な畏怖すべき存在だった。いや、逆か。畏怖すべき存在に面とむかって反発しはじめたのが、このころと言える。
数年ほどは授業さえも無視してまったくタッチしてこなかったし前日になっても教科書さえひらかなかったのに、存外、試験なんてものには通ってしまうもので、地元の商業科に進学となる。たしかマルバツ問題以外はバイクの名前とお気に入りのバンドやミュージシャンの名前をなんっっっの脈絡もなく書き込んでしずかに壇上の机のうえに置き、時間ごと、科目ごと、いの一番に試験会場から抜け出て人目の少なそうなあたりでタバコなんか吸ったりしていたのだが、あれ、名前さえ書いておけば、みんな通った程度の試験だったんじゃないだろうか? もちろん、受かったのなんのといったところで、やる気なんかさらさらない。よもやおもちゃ屋さんやバイク屋さんになりたいなどともすでに思ってはいなかったが、また3年間、壁とイスと机とひとの群れのなかで過ごさなければならないことにうんざりしていたし、なんでこうまで親の言いなりにならなきゃいけねんだ? といった思いが、どこかしら、痩せた腹の下の方から、わずかな熱量をもってじわじわとうごめき、確実に、音もなく湧き出しはじめていた。そしてそれは、いまだつづくそんな父親の非道徳性ともいえる思考と行動とを目の当たりにするにつけ、「アレに引導を渡すべきはひょっとして、長男たる自分の役目でもあるんじゃないだろうか」と本気で思うようになった。
高校生ともなればさすがに放課後はばっくれたが、土、日ともなると、それはもう「家業手伝い」ではなく「仕事」の域に達している。高校進学を境に定時制に入学した親友ともはなれている日が多くなり、部屋でギターなり音楽を聴くなりして時間をつぶそうにも、家にいればいるだけで「仕事」が来るし、陽も高いとなれば、おいそれとバイクに乗って走り回るわけにもいかない。次第にクサる日のほうが圧倒的に多くなり、自主的に授業に出ないようになって、山のうえの公園でタバコをくゆらしながらぼんやり過ごすことが日常となっていった。もちろん、高校では科目以上に大事になるらしいと知ってはいたが、出席日数など、書き付けてもいないし、いち度も計算さえしていない。入学して半年もしないほどで、高校は、無事卒校となった。
正直、お金を持ったりつかったりといった経験があまりなかっためにその価値がわからず、家業とはいえ「時間無制限、食費込みで2万円」というサラリーがどれほど搾取されているものなのかすら理解できていなかったのだが、とりあえず、はじめて自分の自由にできるまとまった金額ということだけで、学校に通うよりかははるかに「らしい」生活のように思えて、2万円といってもうれしくあった。まとまった支払い一発目は、二輪の免許と50CCギア付きバイクの名車「モンキー」。二段階取得とかがはじまっていきなり中型免許がとれなかったため小型からのステップアップ。おなじく、フェンダージャパンのセットから、黒い「テレキャスターカスタム」。一応、こいつがはじめての、自分で買ったエレキギターだった。チョイスの理由は単純で、RCの写真や映像などで、チャボが使っていたから。だが、この当時のセットものについてきていたアンプが非常に出来の悪い粗悪とさえよべるもので、当時流行りはじめていたハードロックを意識したものだったのだろうか、やたらハイばかりキンキンして下げればこもりまくるという、どうにも扱いの悪いシロモノだったのだが、初のエレキギターにして初のアンプである。ギターとの関係性や相性、メーカーごとの傾向や音楽の流行りすたりなどの理解力もまったくないままに、ギターは間違いないはずだが、この音はチャボの音ではないと、それだけの理由で、とっとと見切りをつけて早々に手放してしまった。つぎに手にはいってきたエレキギターはアリア製の、なんだかやたらミニスイッチがついていた青いモデル。これはまさしく「手にはいってきた」ギターで、当時付き合っていた彼女づてにやってきたもの。テレキャスのカスタムですらなにがどのボリュームでトグルスイッチの意味なんかもほとんど判然としていなかったのに、スイッチばかりたくさん付けられていても、そのオン・オフの場所すら、わかるわけがない。こいつは知らない間にどこかへ引き取られていっており、やっぱキースもキヨシローさんもクロッパーさんも使っているからと、先と同じフェンダージャパン製の、52年だったかのレプリカテレキャスター。これはわりとよく弾いていて、ギターとしては、はじめての「愛機」とよべるものだった。いや、なに、アンプも替えたから出音が向上しただけだったのだとは思うが、それでもノミで穴あけて、自分でフロントにハムを載せて出音を太くしてみたり。テレキャスはピックガードがでかいからなんとか見える仕上がりとなってはいたが、無知は怖い。
これらをぼつぼつとローンで購入し、そこに加えて姉のレコードやカセットテープ類などのライブラリーも堂々とお下がりのステレオとラジカセでダビングし、いよいよ姉の持つ全楽曲群が、自分の手中へと入ってくる。と、ここで見つけたのが「クールス」のアルバムから「ミスターハーレーダビッドソン」なる曲名。……おや? 自分はたしかにこの曲を知っているぞ? しかも、ファルセットながらキヨシローさんにそっくりなような……。
「……あの時さがしてたのは、案外この曲だったりしてな」
ほかにも、何枚かのアイドル系にまじって中島みゆきやキャロル、ブラックキャッツなどの日本のロカビリー系やロック系、フォーク系などの発掘に成功し、また、貸しレコード屋なんかもできたおかげでRCの「ビートポップス」の歌詞や音楽雑誌などを頼りに、洋楽の歴史を、確たる音源としっかりしたライナーや訳詞や解説文つきで、ぽつぽつ本格的にたどりはじめたりすることになる。
カネが入ることで回り始める時間。しかしそれも、次第に度を越えていく。父親が働かない。
自分の仕事振りに気を大きくしたのか予想以上にカネが入ってきていたのかは知らないが、現場にしかいないこちらとしてはたとえ吞ん兵衛のナマクラ者でもひとり分の人手が頭数からいなくなるとなれば、日々の作業を切り回していくだけで、時間など、いくらあっても足りなくなる。都合ふたり分の仕事量をひとりでこなそうとすると、単純に、倍の作業スピードか、倍の時間が必要となるわけで。絶対権力者であり家庭の覇者でもある父親から強制的に「2代目」を宣告されている身としては、苦情もあれど、日々の生活が先である。いつしか自分の就労時間は、日の出前から日付がかわるまでになっていた。さすがに、これで2万円はない。せめて給料だけは上げろと母親にせまってはみたが、それでも3万円にしかならなかった。もはやギターを弾くどころではなかったが、現場まではバイクで通っていられたのでまだ満足はしていたのだが、どうにか時間をやりくりして中型免許を取ったころに「モンキー」が潰れ、姉のツテで安くしてもらえた当時最新のヤマハ製TZR250に、バイクが代替わりする。本文でもふれてはいるが、なにくれといじりすぎて潰れたバイクの筆頭がこの「モンキー」で、Fフォークを正立に交換してディスクブレーキを組み、セパハンにカットしたツッパリテールとダウンマフラーに独立丸目にタコメーターを追加して万全のZⅡ仕様にキャブもかえてファンネルつけて等々、車両本体の数倍ほど、カスタムパーツ代に追金しまくったあげくのことだった。マシンというものを愛していたと胸を張っていえる、一番最初の機体だった。この「モンキー」、その後もしばらくは飾りとして手元に残しておいたのだが、なん年か後に工業高校生だというふたりの少年が「むかしからあこがれていたバイクなんです。自分たちでレストア(再生修理)するので……」と、是非にもゆずってほしいと申し出てきてくれたので、不動ものでよければと念押しだけして、ナンバーとスペアキー以外は、一切を渡してやった。工業高校生ならばとも思ってのことだったが、しかしその後、動いているところは見ていないし、是が非でも彼らを追わなければならないいわれもない。残念ながら、初代の愛機とはそれっきりとなった。写真もフィルムに現像にと高価だった時代ではあるが、せめてもう少し形にして残しておけばよかったと、手放した数々のギターたちともども、いまだ壁に貼り付けてあるナンバーや色褪せた数枚の写真をみるたびに、ちょっとさみしく思い出したりしている。
このころになると姉が巣立ちの準備、いわゆる彼氏とふたり本気で将来の話なんか詰めはじめたりするわけなのだが、ここで両親は徹底した妨害工作を打ちつづけ、いや、お年頃、もう、中学生になったぐらいから打ちまくって何度も姉の恋路を踏みにじり、反発する姉をさらに叩きのめすがごとく、ときには階段から蹴り落としたりオシャレにまとめてた髪をひっつかみ、ハサミで刻んだりしていた。愛情が転じてなんとやらとはよく聞く話だが、父親の場合は常からがそれで、仲良くなった相手ともアルコール越しに話なんかしていると、途端に攻撃的になってエモノを手に実際に攻撃しだし、うちから血だるまで帰る親せき筋の姿なんかも、ちいさいころから、わりとよくみかけていた。さすがにひと様の子息を直接手にかけることはなかったが、そのぶん、本人である姉と、まったく無関係なのになぜか学校の担任教師などは、ちょいちょい標的となっていた。そんな姉も、いつのまにやら筋力も体格も言うことも、回ってくるカネも、徐々に人並みになってきていた自分にどこかすがる部分があったのだろう、そんな両親に対する愚痴をこっそり自分にこぼしにくるようになったり、彼氏との電話をつないでほしいと頼んできたりしはじめ、相対的に、自分に対して、すこし優しくなっていた。このころには自分も父親に対してすこしは余裕がではじめていて、「アレを合法的に殺す方法としては……」などと、物騒ではあるかもしれないが、心理的にそんな父親とも立場の逆転がはじまっているともいえるような、ひそやかな反逆にも似た絶対主の抹殺という、ある意味、甘美ともいえる夢物語を浅くわずかな眠りなかで、夜な夜なつむぐようになっていた。
自分と違いちゃんと定時制に通っている親友はどこからか中古の「ポッケ」を手に入れており、よくふたりで日帰りツーリングと称して2台で遠方の町や山越えして他県まで遠乗りして、お互いそれなりに、バイクライフをエンジョイしていた。大、中型どころか原付までもヘルメット着用となったのはこのころの話で、それでも二人、「バイクでなんか死んだら、乗ってるバイクに悪い」と意見は一致していて、お互い原付ながらも、誰かからのお下がりを黒塗りしておそろいにしたフルフェイスを、わりと気に入ってかぶっていた。それに、ヒネてよじれて歪みまくっていた自分とちがい、親友には彼女もできてその関係も良好でしっかり長続きしており、恋仲が進むにつれ「オンナもいるのに、バイクで死ぬぐらいなら乗らんわ」とさえ言っていた。ちなみに、自分にバイクのなんたるやを説いて教えてそれがきっかけとなって長年つるむようにさえなり、どうせ買うのならと黒いフェンダーをすすめてくれたのは誰あろうこの、無二の親友である。理由はもちろん、「チャボが使っているから」。ちょうどRCが「KING of LIVE」の一大プロモーションに打って出ていたころで、新もの好きだった父親がどこからか買ってきたビデオデッキとプロジェクター(!)で、市販されていた各バンドの映像なんかをビデオ購入して、その周辺で作業するときなどにRCはもちろん、「ブルースブラザーズ」や録画した「R&Rバンドスタンド」、「ヘルプ」や「憂歌団」なんかを流しっぱなしにして、ふたりとも折にふれては、そこでよく観ていたのである。
第一報
どちらかといえば親友はヤンキーっ気が強く、はた目にもそれとわかるファッションや生き方なんかを、自分から選んでいたように思う。「ポッケ」のつぎに入手したバイクはCBの750Fモデルだったが、これがまた、その筋の先輩によるツテでほとんどタダ同然でもらったという由来の示すとおり、お世辞にも上手とは言えない自家塗装によって真っピンクに塗り上げられた見事な族車仕様で、セパハンにバックステップ、小型の装備品にノーマル風カラーとヨーロピアンスタイルを好んでいた自分としては「へえ。いいんじゃないの?」と言ってはおいたが、改造の仕上がりも雑だし、手を入れていけばなんとかなるかなと思いはしたが、正直、750㏄とはいえ自分の趣味の範囲を超えている、非常にダサいものだった。しかしそれも、本人が気に入っていればいいだけの話であり、そのスタイルに、とくにあれこれと注文をつけるということもしなかった。しなかったが……本人も、いざ実車を引き取ってみてさすがに雑なバイクだと思ったのだろう、我が家へも、あまりそちらでは乗ってこず、あいかわらず「ポッケ」とTZで遊びまわることが多かった。しかし、そのCBを手に入れたことでヤンキーっ気が燃え上がってしまったのか次第にノーヘルでいることが多くなり、その都度、「またおまえ、メットかぶれよ」と、くどくどと小姑く文句をつけたりしていた。その後、あまりにうるさく言いすぎたのか仕事を辞めた矢先だったために自分との持ち時間のズレが生じてきたためだったのか、それとも、「ブルーハーツって連中の曲がいいらしいぞ」ともってきた情報をふたりでなかなか調べられなかったためだったのか、ヤツの足が、うちから少し遠くなっていった。仕事探してんのか見つかったのか、それとも、彼女のところへ行ってんのかほかの連中とCBに乗ってんのか、まあ、中学も卒業するとこんなもんなのかなあ、と少し、気にしだした矢先だった。ヤツが死ぬ。
ぼんやり
消防署前。誰かのバイクのケツに乗っていて、絵にかいたように右直にすくわれて飛んだらしい。ノーヘルで脳挫傷。病院の救急でひと晩はまだイキモノとして機能はしていた。真夏の夜。待合に次第次第、久しく集ってくる悪友どもの顔。言葉は少なかったが、そんなものだろう。そこへなぜか自分の両親が登場し、病室から出てくるや否やうなだれているみなの目のまえで「ありゃあ死ぬど。もつものかよ」と酒臭い息で吠え、すたすたと帰っていった。自分はもう、ぼんやりしていた。なるほど生きてはいけても、動けはしないだろう。ベッドに置かれているパイプだらけのヤツの身体と生気の消え失せたふたつの目は、誰しもにさえ雄弁に、それを語っていた。朝がきても不快なほど湿気のまとわりつく、やたら蒸し暑い夏の夜だった。容体急変。駆けつけてみれば延命装置を外すところだった。「規則により……」「どうぞ」。ヤツの親父さんの落ち着いたひとことで、光りが消えた。
ぼんやりは出棺の直前までつづいた。ああ、最後だと思ったら、ようやく涙が出てきた。しかし今度は止まらなくなった。どうにも抑えきれず泣きじゃくるうちに痙攣をおこして倒れてしまい、出棺の場から、どこか別の家へと連れ出されてしまい介助されてしまった。なので、あいつのドアが閉まる瞬間は、残念ながら、見ていない。
18歳で死ぬ。ある意味、それは自分の目標だった。このまま歳食ってまで生きていたくないと本気で思っていた。
あいつと話し合ったことのあるそれは自分の目標で、あいつはちゃんと歳をとり、見たり聞いたり、自分の子や孫を、あやしたり抱いてみたりしたがっていた。
生きるということを、楽しみにしていた。
「 ジブンハ、ナンデウマレテキタンダロウ・・・・・・? 」
活気であふれていた細いあの長屋通りもいまはもうないし、隠されるように通りの裏手に置かれていたあいつのCBも、いつの間にか、どこかへ消えていた。おふくろさんは文字通り後を追うようにみるみる衰弱してそのまま逝ってしまったし、親父さんの行方も、いつしか風の頼りにも聞こえなくなってしまった。あのときケンカになってでも、もっとクチ酸っぱく、メットをかぶれと忠告していたら。もっと一緒になって遊びまわり、そのついでに仕事先なんかも一緒にさがしてやったりしていたら。後悔なんてものはいつも、取り返しがつかなくなってはじめて、骨身に沁みてくるものなのだ。
ブルースを
おもしろいもので、その後数年間ほどの記憶が自分から、ごそっと抜けている。ものの本によればあまりにデカい衝撃を心に受けると、ひととして命の危険と、脳が勝手に判断して原因を忘却するよう自動的に働くのだそうな。自分の場合、ヤツを忘れたくないという思いも同程度に強かったのか、「その後」が数年分、ごっそり抜けている。覚えているのは、彼女ができたこととわりとすぐ別れたこと、酒をのむ飲むようになったことと、ヤツの件ではじめて父親に殴りかかったこと。そして、その時の父親が歳のせいか予想以上にひ弱で、このままでは、自分が一方的にノシてしまうことになると悟ったことだった。もちろん、そんな父親の恐ろしさも自分が一番よく知っており、後日自分の寝入ったすきなどに酒の余勢をかってこっそり刃物など持ち出されても合わないのでそのときは引いておいたのだが、父親の方にもそれは伝わっていたようで、それ以降、いくら呑んでいても二度と家庭内の誰かれに、暴力をふるうようなことはなくなった。まあ、かわりに外で暴れくるようになり、それはそれでヘベレケさまを連れ戻す作業と支払いとに、母親とふたりたびたび難渋させられた記憶も、わりと残っているにはいるが。
自分の飲酒も、最初は過重労働からの不眠による寝酒としてのものだったように思うのだが、よくわからない。気づいたころには自分の寝起きする部屋のなか一面が酒瓶にまみれ、そこらにある封の空いたウィスキーをラッパ飲みでクチに運び、含めるだけふくんだまま、仕事に出かけたりしていた。昔の映画とかでそんなのがかっこよく見えていた記憶もあるし、どこかで「なんかもう、いいや」と思っていたような気もする。そういえば、このころ乗っていたバイクはカワサキの古めのモデル、Z250FT。なんか通販みたいなかたちで遠地から陸送してもらったバイクだったように思うが、これもあまりよく覚えていない。いち度ヤツの墓にタバコをそなえにいくときにクルマに接触されてすっころび、フロントフォークが歪んでしまって旧車ゆえに部品もみつからず、前後のタイヤを履き替えたばかりだったが、そのまま廃車となった。250㏄なのに重いうえにホイール径がでかくて車高も高いし遅いわりにはブレーキも効かないしで、あまりいいバイクだった印象もない。そうそう、TZRが良すぎて速く走れすぎるため、このまま峠道ばかりをかっとんでいてはいつか大事故につながりかねんと自重して、前時代のモデルへと逆行しての買換えをあえて選んだバイクだった。ああ、そうかそうか。遅くて乗りづらそうな古いバイクをあえて選んだのだ、遅くて乗りにくい印象で、当然だわ。
ギターはギブソンの黒いレスポールカスタムを追加で持った。これも経緯はしっかりと覚えていないのだが、たしか給料を5万円に上げさせることができてギターマガジン誌を購読しはじめた当時だったと思うから、そのなかの店舗広告からではなかったかと推測している。たしか1970年代の後半製あたりで当時よくあった型遅れの新古品価格となっていたものだったと記憶しているが、破格の値段で買ったこと以外、あまり覚えていない。なにしろテレキャスターカスタムの失敗(?)があるため、ハムを得意とするメーカー製のPUなら間違ってもキャンキャンうるさくないだろうという判断と、「チャボも鮎川さんも、一流どころの外人さんたちもみんな使っている」から。地元のレコード屋と楽器ショップを一店舗で兼任している店の二階の片隅に2重トビラで隔離されたホコリ臭いスタジオを試してみたり、すすめられるままに何台かの真空管アンプを購入したり知らない連中とセッションしたり、レコードも、そこらの店内ストックではもはやもの足りないため独自に取り寄せてもらって店にひと棚作ってもらったり、ギャラが上がったぶん、わりとお金はほいほいと使っていたような気がする。
ペペを入手したのもこのころだったろうか。幼年・少年向けの教材用として販売していたウクレレサイズのちいさいガットギターで、当時テレビのインタビュー番組などでしゃべりの苦手なキヨシローさんが間つなぎの手なぐさみにペロンペロンと弾いてたモデル。これは後年、お世話になった職場の先輩の新築祝い時にプレゼントしてしまったのだが、いまはもう絶版らしい。まあ、ちいさすぎてとても弾きやすいものではなかったが、造りも案外しっかりしていてベッドサイドギターとしてなら充分つかえたし、キヨシローさんのいない今、もう2度と手に入らないと思うと、すこしさみしいものがある。もうちょっと大きいサイズのものなら販売もしているし手元にも一本あるのだが、ぺぺ、可能なら、この歳となったいま、もういち度手元に置いて、休日にでも、ゆっくり弾いていたい。
気づくと、父親のおこした屋号は原材料の減少により次第に立ちいかなくなってしまい、孤軍奮戦するも「なんかもう、いいや」となって自然、家業を閉鎖することとなり、行き場を失うこととなった自分は地元をはなれ、都心部の工場地帯の、その下請け会社に単身で転がり込むことになる。手持ちはテレキャスとFTから乗り継いだカワサキのゼファー。市街ブロックの中心工場からぐんとはなされたド僻地だったが、それでも、イヤも応もなくまっとうな理由によって「家」から離れることができたし、仕送りだけ欠かさなければ文句も言ってこないはず。あとは社員寮ちかくの酒屋にフォアロゼかカティサークさえ置いてあれば、とりあえずの生活は充分だった。
下請けの孫請けのといっても、やはり日本一有名な自動車メーカーの系列である。そのギャラは、まさしく吹いて飛んだ片田舎の家内企業なんぞとは、はなから比べるべきものでさえない。なにしろ時間や勤務日数で、それまでに手にしたこともない金額の給料が計算式まで明記されてがっしりと出されてくるのである。もちろん、親元に送れるだけの金額を送ってやってもよかったのだが、当月の支払いに回りそこねた余剰ぶんは、呑むか新もの買いでもされて、無為に消えるだけに決まっている。
市街地に出向いてギブソンの335を買う。理由は「多くのブルースマンもチャックベリーも使っているから」。それに、さすがに上達しない腕前に我ながら嫌気がさしてきて、練習量は多い方だと思うがまだなまけているクチなのだろうか、ならばもっと高価なギターを買ってしまえばイヤでももっともっと必死になって練習するはずだ。それでだめならもう、なにやったってダメだろうという心境だった。それにセミアコなら、少しは素で弾いていても音量はある。社員寮には4トラックのMTRを持ってきてはいたが、やはりヘッドフォンは邪魔くさい。ここでテレキャス改は手放して、家に残しているレスポールと335とヤマハのアコギにペペ、それと、また叔父宅からまわってきていた古いウクレレに弦のないアコギが数本と、当時手元にあるのは335だけだったが、楽器の数自体は、なぜか着々と増えていた。
ちいさいころから仕事に対する姿勢だけは鍛えられているし、時間外や休出なんかもさも当然のこととしてよろこんで引き受けていたうえにバブル全盛期で待遇はうなぎ登りだし、やればやるだけ、給料ももらえる。みるみるカネはたまったが、なぜか数年もすると両親から「家に帰ってきてくれ」と頼まれた。なにがどうなってそういう話になったのかは知らないが、けっこうな金額を現金で貯めていたため、まあ、いいか、と軽い気持ちで工場を辞め、地元へと帰省した。いまにして思えば、この当時をしてもまだあの家庭環境の呪縛から、逃れ切れていなかったのかもしれない。
MTRには何パターンかロックやブルースのベーシックリフを録っておいて、それにあわせて適当にジャムり、雰囲気だけでも楽しみながら弾いたりしていた。偶然その音源を耳にしたことのある嫁さんはいまだに「ギターだけがペンペン鳴っている不気味なテープだった」と子供たちに話している。たしかに練習用で録り重ねなどをまったくしてはいなかったものではあったが、失礼な奴だと思う。
意味
ギターは上手くならない。それは家にいてもペペでも335でもヤマハでも同じだった。グヤトーンやらフェンダーのツイン、本編のピグノーズからチャンプやらJCの120やらとカネにあかせて買い増してはいたが、やはり基本的にどこか「筋」がないような。時間にカネ、ここまでつぎ込んでの撤退はシャクだが、どこかで踏ん切りをつけないと、このままでは趣味のためだけに、けっこうな額を散財するはめとなってしまう。どうやら自分はチャボやキースやクロッパーさんやアイクさん、またマークリーボーやマイキーのようには弾けないタイプの人間らしいし、そう割り切ってしまえば、もはや「いっぱし」になれずとも、アマチュアとしてのバンドマン、アマチュアとしてのギタープレイヤーならばまだ、いくらかやりようはあるのかも……。
いよいよプレイヤーとしてくじけそうになった頃、そこにやってきたのが、大ブレーク間近となっていたブルーハーツだった。
基本、同じバンドサウンドにしても、耳にうるさい楽曲系は好みではない。あいつから聞かされていた「ギターぎゃんぎゃんのパンクロックで云々」といった情報からああ、なるほどやかましいだけの連中なんだろうなと妙な先入観を持ってしまっていたのだが、帰省してからお付き合いしだした女の子から聞かされた「ブルーハーツ(ファースト)」と「Young & Pretty」の2枚のアルバムには正直、ああ、こりゃあやられたわと痛感させられた。気負いもテライも狙いも、なんにもない。ただただまっすぐ、メンバーそれぞれひたすらまっすぐ出来ることしかやっていない。それなのに、「言いたいこと」だけはしっかり伝えてる。しかもなんだこの「言いたいこと」は。
「……おまえ、意味わかっててこれ聞いてんの?」
そうか。これでいいんだ。
パーティ・タイム
踊れるところまではいかなかったが、ブルーハーツの流れから、パンクなんかもすこしは聞いてみたりする。英語がわからない以上、やはりライナーも読みたくなくなるほどうるさいだけにしか聞こえない連中も多かったのだが、いくつかのバンドとジョニーサンダースは、アルバムライブラリーに組み入れた。やはり音楽は、聴き手の身体を揺らせてくれるものを持っていないと、せっかくの楽曲も、少しもの足りないように感じてしまう。
パンク襲来と同時に、ギブソンから出ていた赤いシースルーのJrⅡスペシャルを購入する。理由はカンタン、「マーシーと同じタイプのギターでブルーハーツの曲を練習すればマーシーと同じレベルぐらいには弾けそう」な気がしたから。そうだよな。理屈じゃないから音楽なんだよ。
まあ、いざやってみるとマーシー、枚数をかさねるにつれてえらいこと上手くなっていくのだが。しかもいまや、R&R弾かせりゃ三宅の伸ちゃんより上になってるし。
ついで、エピフォンジャパンのカジノ、黄色いJrのDCモデル、色違いで出ていたJrⅡの黒を赤のスペアにどうだろうとそれぞれ順次に購入した。そう。赤いスペシャルによって、すっかりP90の出音にやられてしまったのである。ほんとうは135や初期ストーンズ時あたりにあのおふたりが使っていた330なんかが欲しかったのだが、当時すでにオールドオンリーで高かったし、335もあるしゆくゆくはアコギもいいのが欲しいからとカジノをチョイスしたところ、弦間や仕上がりなど、ちょっと造りの低いものに当たってしまう。しかしまあ、当時のジャパンカジノのクオリティでもあったしまあこんなものかなと納得してそのまま引き取り、自己流でナットの溝を切りなおしたりフレット成形しなおしたりして、335のサブぐらいの軽い気持ちで、たまーに鳴らしたりしていた。
このころには安スタジオのジャムメンバーでバンドらしき活動もちょいちょいやり出したりしており、メンツが固まりはじめて喜んだり、コンテストにデモとか送ってみようかと、デタラメにオリジナルの曲なんかも、ちょいちょい作り出したりしていた。まあ、ムチャだった。なにしろ片田舎の寄せ集めプレイヤーばかりである。一応メンバーとしては「田舎でも本気で音楽やってるヤツラ」というくくりではあったが、ドラムスはジャズ、リードギターはイングウェイばりのフュージョンメタル、ベースはヤザワオンリーで、サイドギターとボーカルと作詞作曲が、シンプルなロック、ブルース、R&B系でかつ、ヘタッピ君である。しかしそれでも、みんなでまとまって音が出せるというだけでも単純にうれしかった。いやあ、うれしかったなあ。
ヘタッピがバレないようにツインをがりがり歪ませたうえでBOSSのドライブでブースト。PUがP90だからプレイヤーとしては気持ちのいい出音だったが、おそらくいま耳にすれば、うるさいから聞きたくないと毛嫌いしていたプードレック盤のパンクバンドの、あの音質そのまんまだったことだろう。そしてこのとき、曲もあるんだし、田舎にしては何本かのゲリラライブも好評なんだから本気でデモ録りしてどこかの事務所かコンテストに送ろうじゃないかと誰がともなく言い出しはじめて、はたと気づくのである。おい。おれらでほんとに大丈夫と思うか? と。
もともと楽器のプレイヤー自体少ない田舎町なのにベーシストはまだちょいちょい入れ替わっているし、仮にプロになれたとして、このまとまりのない音楽性のメンバーでやっていけるのだろうかという不安と、年長者たちの、その年齢からくる「チャンスをつかんだら絶対失敗できないぞ」というプレッシャーからちょっとした気持ちのすれ違いが徐々に多くなり、ケンカにこそなりはしなかったが、少しづつ内部がぐずつきはじめてきて、自分も、4、5曲ほどはすらすらと出来たもののそれっきりあとが続かないし、次第に空中分解寸前の状態となっていって、ドラマーとふたりで公園でジャムったりしたのを最後に、きっぱりと「バンドは解散だね」となった。そして……。
このあと気づくのである。自分がかなりの「べっぴんさん」な、オンナ爪の持ち主であることに。
路線変更……?
地元に帰ってからはバブル期の利点のひとつであった時給の高さを利して、その当時としてはめずらしいフリーアルバイターとして稼ぎになる夜間や早朝をねらい荷下ろしやら中距離ドライバーやらをメインに数ヶ所ほど職場の掛け持ちをかさね、地方在住者としてはけっこうな稼ぎをたたき出していた。また、自分がよそに出ていた時にどういった家族会議があったのかは知らないが、父親もタクシー運転手として、遠地へと出稼ぎに出るようになっていた。当時であれば、もはや殺してやろうとの夢想もしてはいなかったが、他人の手にゆだねるぐらいならアレの息の根を止めるのは自分でありたい、ぐらいには考えていた。だからといって、地元を長期離れるわけだからたまには帰ってこいとも顔を見に来いとも見に行ってやろうとも、盆暮れはどうするかなどとも、まっっったく思考にのぼりさえしなかった。母親に、借金分と生活に足るカネさえ入れてやってりゃそれでいい。取り立ててさわぐことでもないし何故かと問いただす必要もない。自分にとってのそれなどは、その程度のことでしかなかった。
手のひら側からみても甲側からみても、深爪ぎりぎりまでヤスリで削り落しているにもかかわらず指先からしっかり爪の先端が確認できてしまうほどのいわゆる「オンナ爪」。なるほど指先が、指板に直角になんか当たらない。これでは、指のハラ部分でしっかり弦をホールドできないから太い弦だと押さえたい場所から弦が逃げてしまうし、また細い弦でも、その長さが運指の邪魔をして、直角に当たらないことでフレット上で弦のゆがみがどうしても生じ、微妙にピッチがズレるのだ。またアンプに通してボリュームを上げよくよく聞いてみると、わずかではあるが、巻き玄では、押弦しただけでかならずグリッサンドが鳴ってしまっている。これでは、バンドが解散してもしていなかったとしても、ギタープレイヤーとしては、プロで通用するにはいたらなかったことだろう。しかし、ここまでギター機材を集めてしまってはすべてを放りだすわけにもいかないし、プロだろうがアマチュアだろうが、音楽をやっていたい気持ちに、なんらかわりがあるわけでもない。このころ、バンドでつかうことにもなるだろうからアコギもまともに扱えたほうがいいだろうとシーガルとかいう新進メーカーのものを楽器店のすすめで購入していたのだが、当時のそれはDでもOでもなく出音が中途半端でなにか気に入らず、中古のギルドにかえてもらったりやっすい12弦を買ってみたりドブロにしてみたりと、「一生もの」となってくれそうなアコギのチョイスに大迷走していた。もちろん、有名メーカー製にくらべれば金額はそんなにもいかない程度でおさまってはいたが、それでも、本数がかさんでくれば同じことである。ほかにもリッケンのしょぼいコピーモデルや見るからにヘタっているストラトのコピーモデルなんかを在庫処分のために安くするからどうにか買ってっほしいと店に泣きつかれて購入し、ギターの基礎を教えてやっていた近所の小僧っこ達にゆずってやったりしていた。働けばカネは入る。カネは入るが、このままではよろしくもない。
バンドが潰れてどれほどか経ったころ、ディーンマークレーのアコギ用PUとともに、J200を買った。ついで、ヤイリでセミオーダーのD28モデルと同じくセミオーダーの、小型の赤いモデルを購入。いま、RFなんたらと名前までもらっているかわいいやつで、たしか、ヤイリ社がセミオーダーセールをやっていた時期でいくらか安くなっていたころに2本まとめて購入したはずなのだが、酒のせいか記憶不良のためか、これらもあまり詳しくは覚えていない。ただ、心機一転路線変更、もう、弾き語りならピンでいいんだからそれでいこうと、カズーやクロマチックハープ、ブルースハープの各キーまで、ぽつぽつと買い揃えはじめたのである。ローコードを省略で握り泉谷ばりにアコギでガッシガシ弾けばまだなんとかなる。曲間とかはハープソロやちょろっとしたオブリを噛ませておけばどうにかのり切れるはず。いざともなればアンプにはJCとチャンプがつかえるし、根性さえあれば、そのうちひとりで路上ライブとかもできるようになるだろう。
しかしそれでも、「べっぴんさん」な爪の発覚は自分なりには大きくて、子供用のおもちゃなピアノやショルキーにピアニカ、ボンゴや和楽器などその他の楽器にも触手をのばしはじめたのも、この「べっぴんさん」な爪でもプレイヤーとして「いっぱし」になれるものとかあるかいな? とすこし、弱気になりはじめていたからである。それに、やはりイチから楽曲をつくるにはピアノが弾けると非常に楽だということを身をもって知ったからでもある。
わざわざギブソンアコギの最高峰、J200を選んだ理由はもちろん、「キヨシローさんがこれをぶらさげて、ガッシガシやってたから」。それに、不思議とJ200でブルースをやっているミュージシャンは、洋の内外を問わず散見されないため。これはひょっとすると聞いたこともないような面白い音質効果があるんじゃないだろうかと期待した一面もあったにはあったのだが、新品ゆえの特性だったのかこの200だけがハズレで特別そうだったのか、……鳴らない。当時の言説として「弾かないときでもオーディオスピーカーなどにギターのボディを触れさせて振動をあたえておくと鳴りがよくなる」なんてものもあってJ200の特等席までつくってみたのだが、鳴らない。なあに、弾き込んでやれば弾き込んだだけそのうち鳴ってくるさと大きく構えてもいたのだが、弾けども弾けどもまったく鳴らない。板材も空間もひときわ多いジャンボボディゆえに共鳴しにくいのか造りの問題なのか、よくよくみるとネックもジョイント部まで薄く平たいものだが、はたして。
……結論。新品アコギの倍音にはネックの太さとジョイント部分の造りがおおいに関係している。
鳴りの良さはドブロ、12弦、RF、ギルド、シーガル、D28、J200の順。ドブロと12弦は別としても、その後発売されたタカミネの黒いエレアコなども試してはみたが、J200は、それほども鳴らなかったように思う。もちろん、背面ばかりで直接サウンドホールから出るプレイ音を聞いたわけではなかったのでひょっとすると前方には音圧が出ていたのかもしれないが、弾いていて、とても気持ちのいい鳴りのするギターではなかった。
ギターもバイクも、名前やメーカーや、サイズや値段なんかだけで、けっして測ってはいけない。
ようは
何本かのアコギとハープ、JrⅡとJCをもってひとり、スタジオ入り。なにしろカラオケ屋なんかもなかった時代で本気で曲を歌うとなるとスタジオを使うしかなかったし、スタジオに入るならアンプも鳴らした方がいいし、アンプを鳴らすのであれば自前のものを使った方がいいし、それなら、エレキも持って行った方がいい。
結局、持ち込むものはさほどかわらない。
作曲用だとか理由をつけてZO-3なんかも買ったりしながら機材だけはどんどん「いっぱし」になっていったが、「オンナ爪」問題はまったくクリアになってない。ローコードのガッシガシならばと思ってみてもそれだけでいくつものレパートリーがこなせるわけでもないし、泣きのアルペジオやブルース、ブギなんかも弾きたくなれば、とうぜん、バンドサウンドも次第に恋しくなってくる。しかしそれも、考え方ひとつなのだ。
「でもまあ、ようはあれだ」
小難しい理屈は、いらないのである。ギター弾いて踊ってさえいられれば、それでいい。聴き手なんかいようがいまいが、ヘタッピ君だろうが玄人はだしさんだろうが、そんなもん、弾いてる側の知ったことか。
G&Lのテレキャスターモデルを買う。R&Bからレゲエにロック、カントリーからジャズ、フュージョン。太くてまーるいいい音で、その気になればなんでもござれ。それもそのはず、エレキギターの創始者のひとり、レオさん渾身の作だってのが売りだったモデル。まあ、発売直後ぐらいにレオさん、逝っちまったけど。
なにをもってそう思ったのかは覚えていない。RCの解散だったかMG'sの来日だったか、はたまたストーンズの来日だったかキザイアジョーンズやクアイヤボーイズなど古き良き時代を知る次世代ミュージシャンたちの台頭だったか、それとも、あいつとの呪縛から、解き放たれた瞬間だったのか。
ジュジュカからトムウェイツ、ソーセキからヘルマンヘッセほか、それまで、いろんな曲を聴いてみたし、いろんな本も読んだ。あ、ヤベえ。こりゃヤベえ感覚だな、と思ったことも、一度や二度ではない。それと自覚したときに、ああ、これを死神とか憑き物つきとかいうんだろうかと他人事のように感じたりもして、暗い。重い。なんとかしなきゃと足掻いたり演じたりしたところでその反動の方がおおきく、さらに深い「闇」のような場所にとらわれてそこから抜け出せず、もはやその「闇」に身をうずめてさえいる自分が、そこに見えているような気さえしていた。そんな毎日が、いったい何年ほど続いたことだろう。いや、十数年ほども経っていたのだろうか。
そのとき、「……あれ?」という突き抜けた感が、たしかにあった。なにが理由だったのか、またどんなきっかけだったのかもまったくわからないのだが、とつぜん「あいつが見ることのできなかったもの、感じることのできなかったもの、体験することのできなかったものを、おれが見て、感じて、体験したりしていけば、もし仮に、つぎの世なんてものがあってもう一度出会うことができたとしてもいい土産話になるし、はやく死ぬ予定だったおれがかわりに見て、感じて、体験したりしていけば、あいつもおれも、生まれたことにすこしは意味が持てるんじゃないだろうか」。そんな気持ちがとつぜん、ふっと降りてきて、なんか、それさえ知ってりゃもう、全部どうでもいいんじゃねえか? といった気分になれた。
「 ジブンハ、ナンデウマレテキタンダロウ・・・・・・? 」
答えはまだ解けていない。けど、すべてのものに答えなど、そう必要ないのかもしれない。
まあ、よしとする
学歴や正社員といった自分にない社会的価値のようなものを痛切に体感させられたのは、自分にも、「守るべき家族」なんてものができてからだった。ちいさいころからあれこれと思い悩まなければならない人生だったし、読書癖も長じて宗教書物や哲学書や、自然科学に関する文献なんかも機会さえあればわりと好き嫌いなく目をとおしたりして思考の一助ともなっていたので、生物学的にも人生哲学的にも、それがなにを意味して自身どう行動すべきかは、あらかじめ、ある種の覚悟とともに自分なりには心得ていた。生意気ではあるが、彼女でも、また伴侶でも、自分のような者をどこまで見染めてくれているのか、自分の子供を産んで迷うことなく添い遂げてくれるのかどうか。それだけが、学生のころから、相棒とすべき異性の判断基準だった。もっとも、それほど機会があったわけでもないし、田舎では、卒校してしまうとその機会自体に、めったに遭遇さえしなくなってしまうわけなのだが。
子供ができたと聞かされた瞬間に、パッケージごとひねりつぶしてタバコは捨てた。経済的に400㏄はきつくなるだろうからとゼファーも売り、キック付きでとことこ走れ、高速走行も可能な小型のシングルモデルをさがして、ヤマハのTW200に買い替えた。ところがこのTW、のちに大ブレークしてしまいまいまたぞろカスタム熱にうなされて改造につぐ改造をほどこしてしまうのだが、まだカスタム部品自体発売されておらず、この当時はフルノーマルで通していた。
何本かを残し、ギターもアンプも処分した。守るべきものができても芽がでていなければその道はスッパリあきらめる。それも、学生時代から胸に決めていたことだった。
あ、趣味は別。
チョイスは自分の好みと、カネになるかならないか。一応、購入時、すこしは投機の対象になったらいいな、などといやらしいシタゴコロもあったためにいいものと判断すれば多少値がはっても躊躇せずにバンバン買い増ししたりしていたのだが、実際、残念ながらシタゴコロにかなう品は皆無だった。あれからすこしは時代のくだったいま現在であったなら、まだ少々は、いい値で引き取ってもらえたものもあったのかしらん。
CDの勢いが不動のものとなってプレイヤーの替え針が製造中止となった時点で大部分のレコードは処分していたし、ほしいものはすべてCD盤であらたに買いそろえた渾身の楽曲ライブラリーだっだが、やはりいち度しか聞いていないような新規お試しCDなんかも数あって、これらも、厳重に選抜したうえで処分した。カネもいるが、あらたに住人が増えるとなるとたいそうなスペースが、家に必要となる。といっても、まだ数千枚ほどは手元にあるのだが、これらだけは思い入れもあるし子らに残してあげたい「いい楽曲」ばかりなので、いまでも気の向いたときにそれとなく流したりしている。プレイヤーも何度か故障したためデッキ組みのままではカネもかかるしさすがにあきらめて、市販のコンポにかえてしまった。LDデッキは「ザンボット3」をどうしても子供たちと観たかったのでついこのあいだ、ヤフオクで程度の良いものを競り落としてDVDに落としながら一緒に鑑賞した。娘さんのほうは食い入るように観ていたが、息子さんには衝撃が強かったらしく、劇中各クライマックスのたびに、そっと目をふせていた。
……おまい、もう中学生だぞコラ。
残したギターや機材も甥っ子にゆずったり交換したり。335をエピフォンジャパンのエンペラーだったかと交換してしまったのは痛かったが、おかげでジョンレノンの生写真をもらったのでまあ、よしとしている。が、聞くところによるとジョンレノン、神奈川あたりに別荘持っててソロになってからわりと頻繁にお忍びで来日したりしており、けっこうな数の焼き増し生写真が、全国規模で出回っているとかいないとか。
……まあ、よしとする。
TWはトラッカーブームが到来してしまってカスタム部品が大量に出回るようになったころから徐々にその姿をかえていき、カウルをはずしてゼファーの丸目にステッチ付きシートにヨーロピアンウインカー、ハンドル位置さげてディスクブレーキ組み付けたあたりで、嫁さんからストップが。できれば車高を下げてヨーロピアンスタイルにまで変更し、ボアアップぐらいまではやりたかったのだが、まあ、よしとする。が、……数年後、まったく同じような仕様の225㏄モデルが当のヤマハ社から新規発売されることとなり、雑誌を手に愕然とする。
……まあ、よしとするほか仕方がない。
子供ができたら止めると決めていたのだが、禁煙は、数年も続かなかった。あいつの墓前に出向くときに、何本か火をつけなければならないから。ひと箱といっても回が増すと、さすがにあまってくる本数がもったいなく思えはじめてきて、ねえ。生物学の上からも、親父になると同時にタバコを止めるという積年のあこがれを自分から無にしてしまうという形になってはしまったが、まあ、いいんじゃないの?
よくある話で
遠地に出ている父親が見事にオンナと借金をその地で新たにこさえていることが発覚し、残された自分と母親それに、嫁さんと自分の子供たちは苗字を変更した。あたらしくオンナができたことでようやく母親もいままでのソレがどんな夫であり父親であったのかをまっとうに認識できたらしく、さすがにこのときばかりは自分の眼前で錯乱状態に陥ったりしていた。うっすらと話に聞いていたところでは、若いころはオンナ癖も相当にひどかいものだったらしく、自分が母親の胎内に宿ったとみるや当時の相手さんと別天地へ逃げ、そこでひっそりハニーな生活をしていたそうな。父親の生態を一番よく心得ている大ばあさんによってふたりとも捕縛されて引き戻されたそうだが、そのとき、もはや父親に母親との婚姻継続の意思なし、よってハラのコは堕胎すべしとの結論まで出ていたらしい。いざその段になって成長しすぎているからと病院で断られたとかなんとかで産むしかなくなってしまった成り行きが自分の存在理由であり、ああ、やはり決して望まれて生まれてきた身ではなかったんだなと、みょうに納得したのも、べつに昨日や今日のことではない。
もちろん、だからといって自分たちの生活がなにひとつ変わるわけではないのだが、そうして父親にすがっていたぶん、母親の悩乱振りはひどかった。愛だか憎だか知らないが、ひとの前では悪しざまに父親をけなして回るのに、一人にしておくと途端にごうごうと獣のうめき声よろしく大泣きに泣きだしてみたり、言われれば言われるがままに、そんな間柄となりつつも、父親のもとへと以前よりよほど頻繁に、いそいそと単身御用聞きに出向いたりしはじめたのである。その相手さんとなにごととなく言外に張り合いでもしていたのかそうした精神状態だったのかはしらないが、いい歳こいたジジイとババアの話なのである。そこにまた姉も入って自分をのぞく3人でなにやらごにょごにょと動きあっていたようだが、それと知らされもしない以上、それもまた、自分の知ったことではない。大きな出来事と言えば、家の名義が自分になったりそれにともなって税負担が重くなったり、ふたり目となる長男くんが、無事に産まれてきてくれたりしたことぐらいである。
困ったのがバブル。ハジけた損だ大損だと言っていられるのなんかは、まだ生活に直結していない側の話。そんな大手企業のお情けや地上げ関連、社長界隈の名士ごっこや偉人ごっこにもたれかかってよっかかり引っかかりしていたのは実は地方都市そのものの方で、小売店舗や商店街をも巻き添えにしてひそやかにバブル期を食いものとした大手企業の地方からの一斉撤退こそが、今にちの地方疲弊、地方衰退の最大の要因なのである。関連づいていることだからここで言ってしまうが、政治にしろ各マスコミの主張にしろ市民制度や市民団体といわれているものの活動主旨にしろ、スポンサー制度の上で成り立っているシステムは鵜呑みにすることなく、まずは最初から、疑ってかかった方がいい。人間だれしも自分に不利になるようなことは言いたくないものだが、連中はスポンサーさまのためなら、真実の歪曲どころか、ウソからマコトを平気で作り産み落とす。社会風刺暴露映画の雄とされているマイケルムーア監督も他方では、非権力側の使者であることが裏世界では当然のこととしてささやかれてさえいる。もっとも、「不都合な真実」としたタイトルは秀逸で、人間世界はそんな「不都合な真実」をひたすら隠しつつ運用することで回転しているのである。地球温暖化現象は実は「都心部温暖化現象」であり、真夏の盛りにはビルまるごと冷蔵庫にして生活し、真冬ともなればワインセラーのごとく温度も湿度も管理して過ごす。そしてその温度差はエネルギーの塊として温風化され、ビルの外にすべて排出されているわけである。ではなぜだれもそれを指摘しないのか。クーラーやヒーター、除湿器加湿器を売るものがスポンサーであり、電気を売るものがスポンサーであり、ビルを建てるのもスポンサーならば、口封じに政治屋にカネをわたすのもテレビ会社を管理運営しているのもマスコミを支えているのも、全部この、スポンサー側なのだ。誤解を承知のうえでさらに言及するのなら、ジョンレノンやボブマーリィの場合などはどうだろう。よき伝説ばかりが先行しているが、権力者側からではない方向から、ある種の助力や支援や指導など、一切なかったのだろうか? 音楽的偉業が目前となった近代ミュージシャンはなぜみな一様に黒魔術に走り、芸術界で名を成すものはなぜみな一様に薬物を好むのか。また、歴史上の偉人たちは偉人だからこそみな不慮の死をとげたのか他方、不慮の死と引き換えにすることで、万世一代の大偉業を成しているのではないだろうか。
真実さえ見誤らなければ、それはわりと、よくある話なのである。
想い
大手企業の末端にフリーとして職場のいくつかにまぎれ込むことでクチに糊していたわが身である。ああ、あのとき正社員へのお誘いを無碍に蹴らずふたつ返事で引き受けておけばよかったと折に触れては思わないでもないのだが、家持ちババ付き妻子持ちともなれば、転勤族となることは当然、やたらと高いハードルであることを意味している。それに身をもって、子供心にあたえる引っ越しのダメージも知っているし、嫁方の事情なども考慮しなければならない。当然、その当時の選択肢は限られていたし、そちらを選べる程度には稼げてもいたのが現実だった。
まさか、日本全体がこうまでコケると、バブルを知るものの一体、だれが予見できたことだろう。
子供や嫁さんに無理強いはしたくない。したくはないが、こう見えても各職場では信頼も厚い現場きっての腕っこきだったのである。極秘裏にアルバイト店長同盟みたいなものを全国規模で組織して待遇の改善活動をくわだてて会社側に煙たがられたのも、いまとなってはいい思い出でもあり、いい経験だ。そんな情報網も独自に作ってもいたので、企業の退転や撤退の決定はそれぞれの職場のあらゆるルートから、だれよりも早くつかむことができた。
方々からもたらされる情報から生活の危機を察していちはやく転職には動いていたが、もとが出向企業の時給カケモチ稼業である。衰退一途の田舎町で家計を養えるだけの求人などろくにあろうはずもなく、あったとしてもそれは自分と同じように、泥船と知ってネズミの逃げ出したあとでしかない。しかし、当地はもともと山と海しかない立地なので、逆をいえば、海か山が職場なら食うには困らないハズである。それに、親の代からのビンボー暮らしでロクすっぽ子らに残してやれるものも、まあ、音楽ぐらいしかないのだが、自然が相手の仕事であれば、海なり山なりが残してやれる……。
この転職が成功したと思えるほど自惚れの強い方ではないが、ビンボーながらも自分の幼少時代以上のことはふたりの子らにしてやれてきているし、これといって、大きな後悔もしていない。
ウソをつかない。まえもって宿題と時間割を済ませておく。毎晩、歯磨きはきっちりと。
小さいころから子らに出していたメインのお約束はそれぐらいだったのだが、上の子も下の子も、嫁さんまでが一緒になって、これが守れない。もし自分の立場にあの父親がいたら、3日ほどはもとの位置に戻ってこないほど、週に2、3回はグーで横アタマを殴り飛ばされていたことだろう。なるほどウソをついて何事もやりよいように過ごしているとラクに生きていられているような気がするものだが、そんなものは実社会において爪のアカほどの役にも立たないし、信用を堕とすだけの足かせにしかならない上に、ウソは、クセになる。ウソにウソを重ねて生きていくと必然的に、それが破綻したときには目も当てられないほどのしっぺ返しをくらうことにもなるのだが、オンナ子供にはどうしたことか、それがわからない。それに生まれのよろしくないぶん、自分はウソと芝居のプロである。だいたいのものは、見ていればわかる。わかるがよほどの悪事につながらないと判断できうる限り、なるべく気づいていない芝居をしてやっている。ことあるごとにずっとそれを言い聞かせ指導してきている、自分が悲しくなるから。
あとはなるべく、本人の思うように考え、思うように行動してくれたら。ならば、その善悪可否を自主的に判断できるよう手助けしてあげられたら。まあ、そんな想いを託すべく長年育てきたつもりなのだが、はたして。
AさんBさん
そんな折に、籍も居場所も名実ともに家から放り出されたはずの父親が、どうも「許してくれるものなら許してほしい」と母や姉に泣きついたらしく、「うちに帰してあげてほしい」旨の話を持ち掛けてくる。父親ももはやいい歳となり、孤独死が云々などと世間的に取りざたされはじめる少しまえの事なのだが、自分もすでにヒト科のオスとして、人間生活にはそこそこ精通してきている。
「詳しい話は知らんし興味もない。ただ、カネだのオンナだの愛憎こもごもが原因でわかれている以上、すべてを御破算としてイチから、なにもなっかたものとしてお互い生活していくという約定がなければ絶対にまた破綻する。年寄り夫婦としてお互いにそれが約束できるのか。できるのならばあとは夫婦間の話であり自分の関知するものではないし、できないのであれば無い」。
それが両親としてこの夫婦に出した、最初にして、最後の指示であり訓示だった。
わりとすぐ帰ってきた父親に商売をしていたころに使っていた電気水道完備の一室をあてがうといった形で両親の新生活ははじまったが、わりとすぐに破綻する。なるほど、たったひとつの約束さえもお互いに守れないし、なにかと理由をつけては守ろうとしたこともないクズ同士のふたりだということを忘れていた。忘れてはいたが、我が親ながら見栄と愛憎と自己顕示欲と自己保身の奴隷である。まあ、どうせ上手くはいかんだろうと、はなっから思ってはいた。思ってはいたが、まさか子供や嫁さんらまでをも引き込みまくってその害を家中に巻き散らかすに至る、堂々たる家庭不和をもたらすようになるとまでは予想できなかった。すみわけによる愚痴や嫌がらせはもちろん、ときには声を荒らげあっての威圧的行為をもいとわない父親と母親、そして嫁さんとの激烈苛烈な三すくみ。そして、嫁さんはともかく、父親も母親も、よせて触れては自分に取り入ろう、味方につけようと工作するのでさらにそれが三すくみの苛烈化に拍車をかける結果を呼ぶ。それに、我が親ながら、もはや駅裏通りのすえたヘドのごとくみえるオーラのような空気感が異様に気持ち悪い。最初のうちこそどうにか解消に向かわせられるよう努力はしたが、三すくみの脅威は個人の対応ではどう転がっても深みにしか陥らないことなのである。もはや対処療法しか打つ手がなくなったころ、今度は嫁さんと早咲きの思春期をむかえあつつあった長女Aさんが仲たがいをはじめてぶつかり合うようになり、お父ちゃんはいよいよあたりを力づくで押さえつけて回るしか打つ手がなくなるようになる。しかしそれでも、血のつながりだけをみれば、家庭内での他人は嫁さんだけなのである。子らには悪いが、まず守るべきは嫁さんの立場と平常心なのだ。筆舌に尽くしがたい労苦、などという言葉もあるが、まさしく、書くもしゃべるもカンベンしてほしいようなドロドロの日々がつづく。そしてそれは、当然のように子らにも悪影響をあたえはじめてしまい、「この家の業はぜったいに子らに回さない。自分の代で断ち切って死ぬことこそが役目」といったささやかな自負と自己目標みたいなものが、グラリと揺がされることとなる。
長女Aさんは乳飲み児のころからジッタリンジン好き。女の子らしく計算高い横着ものでわりと平気でウソをつき、ジジババによってもたらされた不協和音の鳴りひびく家庭環境もあって、成長に準じて嫁さんと衝突しはじめたりしながらも中学で吹奏楽部入りしてクラ吹き任命なるも仲間うちでの上達合戦に敗れ学生生活が荒みがちに。学童数自体が激減している田舎町では好き嫌い、人間性の合う合わない関係なく「クラス学年みんなでみんながオトモダチ学校」といった校風をなかば強制されてしまうため、しばしば人間関係の迷子に。高校進学により母娘衝突はさらに激化、自身、天然でヒキコだった過去がありもともと世間知らずでもあった嫁さんを激烈三すくみ中とはいえ言葉のみでノイローゼ寸前にまで追い込み、次第に人相のかわっていく嫁さんの顔色にさすがにまずいと思ったのか「ネコをもらってきてあてがえばアレの気もなごむのでは」作戦を勝手に展開してさらに衝突激化という経過を呼び込むことに。しかし基本、嫁さんとしてもネコ好き家庭出身のネコ好きオンナであるために数ヶ月もすれば作戦成果はAさんの意図したものとなってきて成功はするのだが、オンナの戦いはオトコのそれとは違って勝利ではなく戦うこと自体が目的であるため、ひと言ふた言が気に入らないとよって当たってモメはじめて、我が家の一員ながらすんげえ面倒くさい連中だなと再確認させられたり。
クラ吹きとしての自分のセンスに嫌気がさしたAさんはのち、やっすい白のレスポールモデルを入手してギター練習を開始。いつの間にかどこぞで購入して以来置きっぱなしとしてしまっていたVOXの格安10Wアンプを譲ってやるものの、残念ながらAさん、自分と同じ見事なオンナ爪の持ち主でやはり指板と悪戦苦闘、少しは弾けるようになったかな? ぐらいとなりはじめたある日、ネックのへし折られた無残なレスポールとともに学校から帰宅。おそらく、やっている姿を見せたい思いもあって学校へと持ち出したりしていたものの教室なんかでだれぞとジャレあったりしているうちに悪ノリが過ぎて、といったパターンであろうとは思うが、がっぽり割れの入ったレスポールをまえに強がってこそいたものの、そのときのAさんは明らかに落胆していた。かわりに、今度はレスポール系よりも少々雑に扱ってもへこたれにくいテレキャスモデルの安価なやつを。しかしAさん、流行りもあって初期ブルーハーツなどのパンク系とAKBというわけのわからん楽曲趣味に陥ってしまい、ここでもしばし迷走。学祭でコピーバンドやったり先生ダマくらかしてどうにか一発での高校卒業を完遂した現在でもしばしばギター熱がふと湧いてくるようではあるものの、あいかわらずオンナ爪に難渋させられると一気にやる気をなくし、そこらに放り出したままにしたりして小言をくらったりしている。いまはヤフオク入札しておいたら勝手に落っこちてきたやっすいストラトと、練習用として購入したnygigたらいう棒状のガットタイプギターを一応手持ちのメインとしているが、両方とも、父親たる自分のもとから言葉ひとつで、なかば強奪していったものである。
長男Bさんはジジババがそろうまでは明るく健全な住環境下でゆったりとした幼年期を過ごすことができたためもあってか、オチョケ者で要領をここうとして天然で失敗して発覚しがっつり叱られる、すなわち、はた目にもピエロ役が大好きとしか思えないようなドMタイプ。本人もそれを自任してすすんでボケ役をつとめようとするのだが、しかし、男子のオチョケが許されるのは本来、小学生期まで。成長期とともにそのうちイイカッコもしたくなって二枚目と三枚目の両方をこなせられる理想の自分と持てるポテンシャルとの差がすくなからずひらきはじめていることに気づいてあせり、中学生ともなると、日によってニヒルで寡黙なダンディBさんとコミカルでピエロな愉快なBさんを本人も演じわけなければならなくなって、演じ分けに失敗したり目論見からハズれたりして、周囲といらぬ摩擦を引き起こすこともしばしばに。しかしこれ、実はお年頃を迎えた大多数の男子共通にちかい悩み。理由は、どっちも女子にモテるから。
馬鹿のままではちと困るが、男の子は単純でいいし、単純がいい。
で、親のなんたらか門前の小僧か、小学生当時からすでにヒロト&マーシーはもちろんミッシェルや山口の富士夫さん、ボガンボスなどのジャパニーズロックに目覚めており、どこで知ったのか「ドラムやってみたい」などと言いいだしたりもしてきたのでスティックなんか買ってやったりしていたのだが、進学時、周囲の忠告も聞かずその場のノリで陸上部志望した中学Bさん、案の定、体育会系の先輩後輩付き合いにも日々ハードさを増すトレーニングにもついていきかね、女の子とも仲良くなりたくて現在、クラブ活動はチマチマ脱線中。しかしこれ、Bさんの言い分ももっともで、現在当地のクラブ活動、放課後から夜19時ちかくまで拘束され、家に帰してもらえない。もちろん、大会だ活動だで土日も関係なく出動させられていて、さながら軍隊訓練のよう。とうぜん時間があればスマホをいじくっているうちに寝入ってしまう日々なのだが、家には食って寝るために帰るだけの生活とは、どこの社所属の敏腕サラリーマンだ。自分たち世代から幾年月、おそらくクラブ活動と称して生徒の時間を締め上げてしまえば悪さするヒマもなくなるだろうとの魂胆、いや方針なのだろうが、教職管理者とか文科省ってのは、つくづく馬鹿なんじゃなかろうか? 子の自主性を奪い育てんで、なにが教育か。しかしいまや、苦情や問い合わせはモンスターペアレントである。嫁さんからも、子のためにならんからくれぐれも学校関連には手もクチも出すなと言われている。ので、Bさんに直接、「サボったらええが」と吹き込んでいる。内申にさわるというなら、さわらない程度にサボればいい。やりたいことも出来んで、なにが青春か。やりたいことを探すのが若者の特権であり、学生の務めであり、教育の本文である。夢や希望や目標をひとつになんぞ限定しようとするから人生に失敗する、した、なんて言い出すアホウが出てくるのであって、夢が浮浪者だってんなら、浮浪者になることができれば、それは立派に夢をかなえた人生の偉人なのだ。婦女子でいうなら、大学進学が夢でも一流企業入社が希望でも、目標のひとつが「お嫁さん」なのであれば、結婚できれば、それでしっかり、夢はかなうのである。夢や目標はいくつでも持てばいい。その候補を知り、調べる作業が勉強であり、その時間が学生時代なのだ。教師や管理者の都合で、搾取し浪費させるべきものではない。行ってはいけない方向に行きそうになったときにそれとなく戻り路を用意してやる。それが親の努めであり、大人の務めだ。
中学生現在、Bさんも最近、ギターをはじめている。家族でその町に出向く折があるとかならず立ち寄るそこそこ規模のおおきい中古雑貨屋さんがあるのだが、たまさか、そこで出会った黒いレスポールモデルにひと目ぼれ。グラスツール製の安価なやつだったのでボディに異常がないかだけチェックして試し弾きもせずに即日購入してきたのだが、いざ手元にくると及び腰となってしまって、何ヶ月かほどはスタンドに立てかけたまんまさわろうともしなかったのだが、残念だがもうやる気はないかなと見て売りなおすか誰かほしいひとを探して譲ろうかと考えはじめていたところ、購入時に教えてやったチューニング方法と2、3のコードとドレミのポジションをあらためてスマホで検索してこそこそ調べなおし、弾いてみようとはしている。楽器は勉強と同じ。本人が自発的にやる気を起こさない限り絶対に身につかない。まあ、待った甲斐はあったかなと思いきや、また止めたり弾いてみたり。隠れてこっそりクリーナーと保護剤塗って弦の管理していたお父ちゃん、きょうは弾いたか明日はどうかとこっそりにも神経を使いながらさらに日を送っていたら、やはり、クラブをサボりはじめるようになってから本格的に弾き出した模様。まあ、やりたいこととやらされることは往々にして違うもの。とりあえずの目標はと尋ねてみたらアベちゃんのカッティングだと真っ赤になりながら答えていたが、まずしばらくは、初期のブルーハーツあたりをカンペキに弾きこなせるようになることですな。ちなみにBさん、母方に似てどの指も見事なヘラ指で、父とAさんが歯噛みするほどの勢いで、弾けば引くほど基礎技術向上中。やる気次第、腕前次第で手持ちのスコアも機材もライブラリーも全部譲ってやるつもりではあるのだが、音楽だけでなく、夢はたくさん持つようにも指導中。可能性のカタマリは、なにかひとつでも人生越しの目標を成し遂げることができさえすれば、それだけで充分勝者なのだ。けっして他人さまや世間さまが、おいそれとかってに評価すべきことではない。
トラブルは向こうから
年寄りどもの不和拡散はつづいていたし、嫁さんとAさんのバチバチもわりと順調に回数を増やしてはいたが、家庭自体はとりあえず世間さまなみに回ってはいた。それまでは音楽とバイクにばかり向かっていたエネルギーや金銭の一切を「家族」に振り向けることで薄給をカバーしつつ、持ち家と、地元から離れたくないという嫁さんや子供たちの主張と生活を守る。おかげで何年も、小島真由美さんやモジョはもちろん、シオンさんや真心、富士夫さんやソウルフラワーなどのジャパニーズフェリバリットミュージシャンズのリリースニュースはもちろん、ストーンズや各オールデイズ系や、キヨシローさんの映像新譜でさえ、おいそれと追いかけられなくなってCDやDVDなどの発売データとともに、ノートに書き留める購入予定のリスト欄ばかりが次第次第に増えていったり。まあ、そちらはあせらずとも、いまやデジタル時代である。音源も映像も、いつになろうと入手できればそれでいい。まずは生物の存在理由、その第一義として、あらゆるイキモノは我が子を産み育て、解き放つためにのみ生存しているのだという証明を、おのが背中でもって教えていく。なに、カンタンにいえば、それは単なる「親心」というやつで、ようは、親も子も、それに忠実か否かというだけの話。自分はさいわいにして、わりと幼い段階で、身をもって、それを認識できていた。なので、いざその時がきてみたところでこれといった造作もなく自然に、そちらを選択していた。子らがしっかり巣立つまでは、それでいい。そんな気持ちだった。
しかし、まあ、好事魔多し……といっても、こちらとしては音楽とバイクという長年にもおよぶ自己救済的な趣味嗜好を「家庭」と引きかえに差し出しているわけなので好事なんてもの自体、そういえば、と思えるほどの実感なんぞもほとんどしていないわけなのだが、災いなんてものは往々にして、淡々とした日々の向こう側から高みから低みへと寄せゆく水面のように、さざ波であれ激流であれ、ひとたび起こりはじめると壁かなにか、しかも、波に見合ったヤワではない大小なりの遮蔽物などに行き当たらない限りは、なかなか止まらないとしたもので。
バブルに踊らされているだけとも知らず我を通し、学歴や職歴を否定した者への現在の転職状況など語るまでもない。もちろん、はからずも、すでにフリーアルバイターなる珍妙な職種を地でいっていた身の上でもあり、そんなプロレタリア階級をみずから進んで選びつづけてきたのだ、各職場の各現場、いわゆる社会の最前線では、実はウデと同輩からの信頼を得ることが学歴や職歴以上にものを言う、リアルな現実だけは知っている。そのために行うべきことはただひとつ。少しでいい、日々、上司の立てている自分への予想より、ほんの少しだけでも上回りつづける努力をすることである。これ、言葉にするとカンタンなように思えるのだが、世の「まえを見るしかない」クラスの社会人は、毎日が限界突破への挑戦なのだ、その努力もなかなか理解されにくいものだし、日々の疲労や気疲れも、そりゃあ尋常なものではない。しかし、あれこれと聞きまわってうるさいやつではあるが、それはあいつが努力家だからなんだなと認識されはじめると、それにともなって任される仕事の質もかわり、給料も待遇も少しづつ……。気の長い話ではあるが、それ自体は、どこの職場の、どんな階級の方々でもおなじであろう。しかし肉体労働者の場合、そんな疲労や気疲れは必ずや老いて身体の負担となるし、ややもすると、いづれ予期せぬ惨事へと帰結してしまうなんてことも、わりと聞く話ではある。ただそれが、自身の近場で起こるりえるかどうかなのだ。
まさしくカネを払ってでもなした努力で新天地において必要なウデと知識をわが身につけつづけ、それにともなう形で、徐々に待遇や薄給なんかも好転改善していく。ときには奥歯を噛みしめすぎるほど歯噛みするしかない日々がざらに続くプロレタリアートどもの心象に、ようやく、苦労の甲斐がではじめたのかなとの思いの到来する時期だ。なかなかどうして、自分はこちらの方法論のプロフェッショナルである。「職場側が頭を下げて引き留めにくるようになるまでは、なにがあってもぜったい仕事から逃げない」を理念にどこの職場でも、末端のものながらも、いちおう役職の声はいただいてきた。そして今回、もはや年齢も年齢で、そこに骨をうずめる覚悟をもって選んだ転職先でもあり、また自分の天賦にも見合った職種でもあったようで、日々の努力がようやく実を結び、どうにか役職の声がかかった矢先のこと、とつぜん、同業他社との合併話を告げられる。
なんのことはない。リストラである。
完全な職人職という職種の都合上、そりゃあウデ達者な年配者が多い。そしてウデ達者な年配者職人ともなれば、みなが皆高給取りである。自分などはそんな諸先輩方々の2段下ぐらいであったから直接の対象ではなかったのだが、職場側は
「合併を機に、職歴腕前関係なくみなゼロベースからの給料体系とする」
と、職人界にあるまじき通達をいきなり布告したのである。もちろん、すでに年配層となられていた方々はとっくに融通のきかなくなっている身体を押して薄給宣言をだした職場なんぞのために無理から尽くす必要などありはしない。とうぜん潮の引くかのごとく一斉に退職され、結果として、その負担は、日々の生活に追われまくる一方で職場に残る選択をせざるを得ない中間層に降ってくる。日を追うように、新人なみの給料のなかで、仕事量と職責だけは増していく。ことに、本来、職人職とは、他業種のそれ以上に、各個人の有する技術と知識だけがすべてといった世界である。上層部の連中に認めさせるしかない。残された中間層の皆がしゃにむに働いた。働いて働いて身体を壊し、否応もなく休業していく者が頻発しはじめる。残されたものに負担が向かう。もはや、絵にかいたような悪循環の様相である。そして自分は、その悪循環の最悪なほうの部類に陥ることとなった。
諸先輩方とのやりとりからも、体調管理や体力保持には常から気を配ってはいたし、仕事に対して油断や慢心もしていた覚えはない。ただ、この上なく、まさしく神の業としか思えないほどの絶妙きわまりないタイミングで、見事に悪運どもが重なった。それらはみな、それぞれを覚えていることすら困難なほどの、小さいちいさい悪運どもが雪でも降り積もるかのように、しずかに、目に見えないほど少しづつ重なっていったのである。冷たい集中治療室のベッドの上で古い型らしいどこか肌色がかった裸電球のたくさんつけられている大きめの照明なんかをぼんやりながめながら縫合を待つあいだ、あのときああしていたら。このときにでもそうしていたら。いや、朝5分でもはやく目が覚めていたりしていただけで、また今とはちがった現在があったのかもなあ。いや、まあ、でも、悪いことってのは起こるときはいつも、こんなもんだしなあ。あーあ。などと、思たりしていた。
駆け付けた嫁さんにひとしきりバカ話を打ったあと、ふと気づけば、どこかしら不快な、ねばり気のある泥土のような眠りに落ちていた。「眠い」のではなく、起きられないのだ。そうか、見たくなかったからあえて見てはこなかったのだが、現場では、よほど多量に失血していたのかもな。
病室の状況なども判断できるほど意識は覚醒に近いのに目覚められない。なんとも、妙な体験だった。
地元の病院が別件での手術中で急遽圏外の病院まで搬送されたのだが、そこでの当日担当医がたまたまその道のスペシャリスト。まったく運命てやつは、人間さまをおちょくっていあがる。よもや神さまなんてものが本当にいるってんなら、よほど目のまえに据えて世界平和からいのちの倫理まで、数日間ほどかけてとっぷりと説教してやりたいほどだ。おかげで足は切らずには済んだが、自在に動かせる部品でもなくなった。
もともとリストラ策を敷いていた職場である。半年ほどして退院すると、じきに「一身上の都合」を強要され、そこから路頭に迷いだす。そりゃあそうだろう、バリアフリーだ人権だと現実から遠い連中がいくら騒いでみたところで、自身が雇用主の立場であれば、なに故まともに動けない連中をまともに動けるものと同列に扱わなければならないのか。なまじ役職なんかをもらったりしていたぶん、そんな考え方も理解はできる。しかし、とつぜん放り出されたこの環境は、筆舌に載せられるようなものではない。また、形はつながりはしても中身は切れたままなので、筋肉筋骨系はもちろん、目には見えない血行不良や血管痛などになやまされ、気づくと下血までするようになった。うん……?
そう、わかる方にはすぐにご理解いただけるかと思うが、下血と足の切創とは、すこし関連性が薄い。なるほど血行不良は大いに問題ではあろうが、ならば臓器に向かう血流は逆に弱まるはずで、推測のとおり血行の不良が下血の一因であるならば、それは重篤なストレスもしくは、なにか別の、それも切羽詰まったような危険性をふくんだ症例が、大腸あたりに潜んでいる可能性を示唆している。
見つかったのは、数個のポリープ。しかも、そのうちのひとつは枝付きとよばれ、親指の先ほどにまで肥大した巨大なもの。ストレスか血行か、そいつが裂けてやぶれて、腸壁にぶらさがったままただれはじめていたのである。
術後静養してあらためて家中のひとに戻り、ふと気づいてみると、家庭のなかで、あきらかに序列が変化している。当人たちは全力で否定するだろうが、実感では、本人不在のうちに、どうやらネコとババアの間あたりにまで降格させられたようだ。なに、身に覚えがないではない。自分は父親と初衝突したときにそれを感じ、子である自分が親を乗り越えた、ある種の世代交代の瞬間のようなものを、若さという力をもって、父親から、ありありと感じ得た。が、自分の場合、ザマはない。ケガによる自滅である。できれば、AさんBさんのたっかいたっかい壁となってときに守りときに打ち砕き、いっぱしの人生観を手に入れられるようになるまでは行けるところまで引っ張ってやりたかったが、それは受け取る側に、ぶつかってでも乗り越えようとする意志あっての話。嫁さんやババアともども、くち先だけでその実よけて通られるようでは、良くも悪くも、家族の壁や道しるべになど、なっておれようはずもない。
まともに歩けない。走れない。動けない。自分の五体の有様をなによりも思い知らされたのは、実は、家の中だった。
ヤベえのが来たな
めいめいがめいめいに好き勝手をしはじめる。手綱をさばこうにも、いわば重りのなくなった家なんてものは、陰惨な方向にしか機能しない。いま思い出してみても、これは恐ろしい経験だった。どうみても不幸しか見えない方向にむけて気色をたたえ、自分以外のみなが喜び勇んで突っ込んでいくのである。もはや忠告も警告も聞かなければ、身体をはってでも止めてやれる五体の自由も、自分にはない。家族が不幸になっていく現実を、ただただ他人事のように見送るしかない。「取り返しのつかないこと」なんてものは後になって気づくもので、年経たものや経験や知識に長けたものは、それを身をもって知っているからこそあらかじめ回避するのであって、感情論やにわかに考えた程度の話で、どうにかなってくれるほど、甘いものではない。
父親と母親、労災や職安や年金、家族の中で外でとそこいらじゅう至るところでぶつかり弾かれしているあいだに、どこか現実感が浮遊しはじめる。下血まえになん度か膵炎でのたうち回り、もう、酒はやめている。またついでに、執刀医からの激烈な勧告と血行不良からくる体調の悪化とペコちゃんのアメちゃん、それに、ポリープ除去時に内視鏡でのたうち回らされたときの得も言われぬ腹部の鈍痛のおかげで、退院からこちら、いまのところ墓参日以外、タバコもくわえずにいられている。とすると、ときおりやってくるこの浮遊感は……。
「 ジブンハ、ナンデウマレテキタンダロウ・・・・・・? 」
ああ、あいつが来たんだなと割合すぐに理解はできた。しかし、今度のは、自我がまだぼんやりまでいってない分、けっこうヤベえやつのような気がする。
「 サイショカラ オマエニハ タイシテ イミハ ナイ 」
「 サイショカラ オマエニ イミハ ナイ 」
どこか遠くで、だれかの笑っている声がする。あれは、だれだ……? いやあ、だれでもいいか。
さすがにもう、いくらか、抗う気力も失せてきた。やれるだけ頑張ってきたんだし、もう、いいんじゃねーかなあ。
幾度かそいつが顔を出すたびに抑え込み戦ってはみたが、今回のそれはどうにもこちらのほうが分が悪いようで、なんとも勝ち抜けられる気がしない。それどころか、あらゆる場所で「いっそのこと……」なんて思いばかりが、ひょこひょこと湧いてくる。まだ感覚が「ぼんやり」とまでなっていないだけに、これはキツい。
「ギター、またはじめてみたら」
つとめて表には出さないようにしていたつもりだったのだが、やはり表情などにはわずかにもれ出ていたのだろう、ある日とつぜん、嫁さんがふとそんなことをくちにした。ブルースにはブルースを、か。それもいいかもしれない。が。
Bさんに買ってやった黒いレスポールモデルを手にしてみる。お、重い。ぶらさげて数分で腰がメゲる。Aさんのテレキャスはどうか。ストラップを通してみるとなまった肩にズシッと。これでは、取り置いた赤のスペシャルもカジノでさえも重く感じるはず。オンナ爪が判明した以上、アコギもあの太い弦ではNGだし……。
自慢ではないが、いざというときのためを思い、家庭というものを持つようになって音楽とも離れた日からこちら、自分のもとに入ってきたカネはほぼ全額、家族のため以外にはまったく使うことなくサイフ貯金として長年にわたり留めつづけてきていた。それはもはや、ちょっとした外出にもおにぎりと水筒をもって出るほどに。そこに、もう、いいんじゃねーかなあ、と「いっそのこと……」がやってくる。
何十年か振りだろう。買っちまった。
一本目は「Anygig」というメーカーの棒状のエレガット。いや、ボディのない、ほんとの棒状モデル。ガット弦のチョイスは初心にもどり、運指練習や手持ちのスコアの完コピなんかやろうかなと考え、そのぶん、フレットにかかるであろうダメージをあれあかじめ考慮したから。ブランクのあいだペペの後継機としていつの間にか購入していた小型のガットを気分次第でペロンペロンと弾いていたりしたのだが、ガット弦はあまり手入れもいらないうえにサビもこないし、フレットを傷めない。ほんとうはチェットモデルなみのちゃんとした一本が欲しいところではあったが、もはや金額をかけられるような身分でもないし、ただでさえオンナ爪のへたっぴさんなのだ、それに、この軽さがなければ、自分には負担になってしまう。また、いまでは信じられないことだが、ひと昔まえ当時は楽曲の完コピや運指練習などはプレイヤーとしての個性を奪う行為であると、そのスコアを掲載しているギター雑誌そのものが声高に主張していたのだ、情報のすくなかった時代、自分もしっかりその主張にならい、楽曲にあわせて勝手に弾いていただけで、完コピや運指練習の類など、いまのいままで一度たりとも、マトモにやったことがない。
遅すぎることはなにもない。ひとは皆やるかやらないか。あきらめることなく。ただ、それだけだ。
十数年ほどのあいだ脳内プレイヤーからバンバン流れていた幾多もの楽曲を、もはや誰はばかることなく時にギターで弾き、また時に、CDをテーブルにのせて実音で聴く。当時は、たとえそれがラジカセであっても「となりでプレイしてる程度には音量出さないと聴いた気になんかなれねーよ」などとイキがったりしていたものだが、いまやうるさくない程度の音量が、耳にも気持ち的にもちょうどいい。ああ、そうか。やっぱりおいら、音楽とおなじくらいギターが好きなんだな。上手とかヘタとか関係なく、ただ、ギターが好きなんだよ。たぶんバイクなんかも、音楽とおなじくらい好きなんだよな。
終わったのなら、また、はじめればいい。
メイベリーンだろう
サム&デイブのベスト盤。それに、チャックベリーとマークリボーと組んだシオンさんのやつとマーシーのソロ。もう死んじまったけど、チャックベリーは、やっぱメイベリーンだよなあ。
スティール弦の音色がどうにも恋しくなってもう一本買う。ヘフナー製のショーティとかいうちっこいモデル。安価な割にはなぜか数ヶ月ほど納期待ちさせられてしまったが、ショートネックのスモールボディでやたらと弾きにくいのだが、キュートですんげえかわいいヤツ。それにあわせてアンプも購入。フルチューブでいて5Wが売りの安物ブゲラ。チャンプのようなワンボリューム仕様ではなくゲインもアッテネーターもついているという値段のわりに使い勝手も出音も悪くない優れたモデル、……なのだが、日によって出音がこもりがちだったりして新品のままではまだどこかしら不安定のように感じられたためにスピーカー部をフェンダーのものへと交換、ついでに、スピーカーコードも手持ちの太めのものへとチェンジ。また他日、キズモノ処分品で出されていたフェンダーの格安10Wと何個かのハンディアンプに何個かのエフェクター。それに、ストラップやらスタンドなどの小物類を数セットにおもちゃのギターに、古いクラック入りのウクレレ。そう。本編でも幾度となくふれているが、これら、ヒマにあかせてのぞき見しはじめたヤフオクやらネットショップやらで見つけては入手した、質のいい格安もの。またさらに、ヘフナーのコピーモデルなのか横流し品なのか、どうとも判別できない黒い格安同型ギターをヤフオクで一本……。
さらには、嫁さん方のお義母さんが加齢を機に、もう手放したいからどうせなら引き取って乗らないかと申し出てくれ譲り受けるに至った、スズキの2サイクル原付スクーターがいち台。
なに、カカシんぼがもういち度自分をはじめるには、このうえないほど抜群のメンツである。しかもまだ、ジャパンカジノは手元にあるしギブソンのスペシャルにいたっては、いまだケース内で眠らせたままなのだ。もっともこの2本は若かりしころをともにすごし、スペシャルにいたってはエレキギターのイロハを教えてもらったとさえいえるほど、さんざん弾きまくったモデルである。使うのであればいずれ近いうちにリフレットに回さなければならないだろうが、そのまえに、Bさんあたりに譲る日がくるやもしれない。……いや。こないかもしれない、のか?
そして今回、スペシャルくんとほぼ同期にあたるほど、自分とも、ふるいつき合いとなったピグノーズアンプの改修改善を、時間もあるからと、いよいよ実施する運びとなった。というのは、本編に記したとおり、それが入手した当時から、仔ブタちゃんに対する数少ない、それでいて、けっこう重大な懸念のひとつであったから。また、新規に仲間入りしたブゲラくんにもまだ若干の懸念があって、それは、真空管による放熱量であったり。拙宅では、むかしから子供のためによろしくないとの説を取り入れて、クーラーの稼働を廃止している。そのため、夏場の暑さにただでさえアツアツとなる真空管が傷みはしないだろうかという点と、逆にアンプからの熱波が、よけいに部屋を暑くさせてんじゃねえか? といった点。やはり格安品とはいえ真空管アンプは真空管アンプ、出音の良さ自体は間違いないのだが、熱気の放出量はいかんともしがたい。ましてや夏場の暑さともなれば。
そこで「小型で軽量、音量少なめ音質重視で質のいいトランジスタ系アンプ、もしくはピグノーズの改良策」といった線でいろいろと調べているうちに「386」にまでたどり着き、年甲斐もなくどこかわくわくとトキメイてしまい、いよいよ自作するにまでいたった次第。そしていざ仕上げてみると、「なんともこれは、貴重すぎるほどいい音ではないか!」と思い至り、ギターは弾けどもご存知ない方々やご興味はあるけれどいまだ踏み込めずにいる方々に向けて、微力ながらも作り方などふくめ、ぜひともご紹介したいなあと、こうしてつらつら駄文をかさねてきたというわけで。
機械と努力は、自分を裏切らないからね。もちろん、そのぶんミスると、大きなしっぺ返しもくらうけれど。
父親は他界した。あれほど見栄坊のエエカッコシーの小心者だったのに、最後はひとり、さみしい孤独死となった。その後も我が家に住み暮らし続けてはいたものの、見栄坊の虫も口先人生も偏屈者の性根もなおらず身内一党どころかご近所さま方々からも孤立、部屋を閉ざし内カギをかけるようになり、母親どころか、知り合い親せき、子や孫が声をかけてもタヌキ寝入りで通す。食料やアルコールの買い出し時以外には外出もしなくなり、様子がおかしいと気づいたある夏の暑い日に、部屋で冷たくなっていた。母親から、子や孫もつけていないのに自分だけクーラーをつけるなとさんざんののしられ、またお互いの愛憎から意地の張り合いしかしないようになり、あげく真夏の盛りに、異様な高温となっている密室で。
母親の部屋は、ふすま一枚へだてただけの隣室だった。
遺体と部屋の状況からみるに、父親は、自分に優しかったむかしながらの母親の姿を、どうやら待ち望んでいたものらしい。あのひとらしい、いかにもかまってほしげな芝居がかった姿で死んでいた。おそらくそのまま逝くつもりなどなかったであろうことは見て取れたが、熱中症による自己意識の混濁までは計算外だったのだろう。
母親はまっさきに金目のものを探していた。警察や消防に連絡するなどよりも早く、まっさきに。
自分はこれで、都合ふたりの人間を見殺しにしたことになる。ひとりは唯一の親友であり、もうひとりは、実の父親だ……なんだこりゃ、という思いもしないではないが、まあ、自分の人生とは、こんなものなのだろう。
自分もいい年齢となり、ああ、そういえばと、実は父親についてはその存命中に、いろいろと思いをめぐらしてみたりはしていた。父親の、その薄幸とさえいえるでたらめな人間性のもととなる最大の原因、それは、実は戦争なんじゃないか。
日本会議の連中が大手をふり宗教家どもが政治をあやつりカネの亡者どもがよだれを垂らして戦争をまっている現代の日本。戦後数十年、世相だけでもまだこれほどにまでいがみ合おうとしているのだ、敗戦当時、やれ父無し児だの疎開ものだのとやられたことだろう。長男でもあり、祖父に代わって守るべき弟の多い父は仲間内で恐れられるほどに暴れまわり、見栄をはり、エエカッコをキメて、結果いこじな偏屈ものとならざるをえなかった。そこに理解者はいないし、エエカコシーの偏屈ものとして通したからには、だれにも弱みをみせられず、また、弱音もはけなかった。戦後を知らない自分たちなどが想像もつかないほど、よほど強く生きてきたに違いない。そういえば、父方の祖母も、ひと際つよいひとだったことを思い出す。……。
打ち解けて、などということはないが、庭先に出ている父親にふた言み言、自分のほうからも声をかけるようになったのは、それからである。もっとも、三すくみ中であるほかのふたりに見られると必ずあとから大惨事を引き起こす原因とされてしまうため、嫁さんはともかく、両親とは、どこで顔をあわせても双方に平等に、あくまで、ふた言み言のままだった。それは、父が亡くなったいまも変わらない。
人生なんてものは、なん度でもやりなおせばいい。父親のように自分の来し方にこり固まって生きる必要も、母親のようになにかにしがみついて生きる必要も、あしたにおびえて凍えて生きる必要もない。
意味はない。理解者なんかいない。それでもいいんじゃないか? そう思える生き方も、立派な正解のひとつである。
それを理解したうえで暮らしていれば、ある日理解者があらわれたとき、また、あらためて生きる意味を見出したとき、今度は向こうから、充実した日々がやってくる。なんのことはない、人生なんてものは、それの繰り返しなのだから。
楽しんだやつが勝ち。ざっつあえんじょいしんぷるらいふ、なんて。
本日はここまでといたしましょう。そろそろ終わりですかね……?